【Colorado】ルネッサンス期の天才画家ミケランジェロ(・ブオナロッティ)が1508年から1512年まで凡そ4年の月日を費やして完成させたシスティナ礼拝堂の壮大なフレスコ天井画をご存知だろうか。「天地創造」と呼ばれるその壮大な天井画は、時のローマ教皇ユリウス2世の勅命によってミケランジェロが独力で描き上げた彼の代表作の一つである。そしてその中にアダムと神を描いたハイライトとも言うべき一場面がある。現在では一般に、この場面は「アダムの創造」と呼ばれ、これまでその意味するところを巡って様々な説が唱えられてきた。教皇からいかなる宗教的指示があったのか、そしてその壮大な画が真に意味するものとは何なのか。ある学者は唱える。この画のタイトルは「アダムの創造」ではなく、「アダムの寄贈」とするべきであると。もう一度、よくこの絵を見て欲しい。この絵に描かれた神の姿は何かに似てはいないだろうか?神の姿は、我々人間の脳の形をしてはいないだろうか?(拡大画像はこちら)
ミケランジェロは、彼の代表作「ダビデ像」を見るまでもなく、その彫刻、そして絵画作品において常に詳細な解剖学の知識が生かされている事は周知の通りである。ミケランジェロは実際に頻繁に人体の解剖に参加し、あるいは自ら解剖を行い、人間の身体をくまなく観察して作品にその成果を反映させていたのである。同時代の芸術家ジョルジオ・バザーリは手記に以下のように記している。
「フローレンスのサント・スピリトの教会修道院長の為に、ミケランジェロはリュネットに設置する木製の十字架を作りあげた。そして彼はそこに部屋を借りてしばしば死体を運び込み、作品の為に人体解剖を行っていたのだ・・・」。
そして完成された「アダムの創造」は互いに手を差し伸べあうアダムと神の姿が描かれている。差し出された互いの腕、そしてその先の指が今まさに触れ合おうとする瞬間である。あたかもこの瞬間、神から生命の息吹がアダムへと送り込まれているように見えるだろう。
しかし注意しなければならないのは、アダムはその瞬間 - つまり神が息吹を吹き込む以前に、既に物理的に存在しているという点にある。つまりこの画はアダムの創造というタイトルでこそあれ、アダムという生命が創造される瞬間を描いているのではなく、既に存在しているアダムへと神が何らかのメッセージを「寄贈」しようとしている瞬間を描いているとは解釈できないだろうか。
ミケランジェロの研究者達によれば、ミケランジェロは絵画や彫刻の作品の中に常習的にある種のシンボリズム、そして視覚的なトリックや謎めいたユーモアを織り交ぜているという。例えば「天地創造」においても支柱やメダル、スパンドレル(三角のエリア)に描かれた裸体や預言者の意味するところは、余りにも多義的に解釈可能であり、未だに満足のいく解釈はなされていないのだ。またミケランジェロが象徴主義(シンボリズム)を作品中に多用していたと推測される背景には、彼がネオプラトニズム(新プラトン主義)に多大な影響を受けていたという事実がある。ミケランジェロが「アダムの創造」を描いている最中、彼は同時代の思想家ピコ・デラ・ミランドラやマルシリオ・フィチーノらの書物からネオプラトニズムに関する知識を得ており、美の起源、肉体美、知性と神といったそれらの思想は確実にその時期の彼の作品に影響を与えているのである。
アダムの創造に描かれた神の姿、そしてそこに隠された人間の脳のアウトライン図はミケランジェロの信念 - 神の寄贈物としての知性と魂、即ち知性という形で描かれる魂の誕生 - として解釈する事が出来るのかもしれない。つまり、ミケランジェロは暗喩として、知性(=脳)を神(=魂)の中に封じ込めたのではないだろうか。神は触れ合う指、あるいはシナプスを通じて、アダムに一体何を授けたのだろうか?
【参考】システィナ礼拝堂の天井画 | 科学の歩みところどころ | ヘルメス文書「ポイマンドレース」
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創世記には、土くれから自分の姿に似せてアダムを形作った後、息を吹き込むことで人を生きものにしたという記述があります。ですから、はじめにアダムが形としてあるのは聖書原理主義的には全くおかしくありません。
ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を描く上で、旧約聖書はもちろんのこと、当初の迫害が収まり最高傑作とようやく認められ始めたゲーテの神曲を熟読していたため、当時の教会が教えてくれなかったであろう聖書原理主義的な気持ちでアダムの創造を描いたのではないでしょうか。
また、個人的には私も指が離れた瞬間を捉えたという理解に賛成です。
後か先は別として、ポイントは触れそうで触れていないところだと思います。神と人とはお互いの存在を感じながらも見ることも聞くことも出来ずもちろん触れることも出来ない。それは何故か?神は人の想像の産物であり、すなわちそれは脳から発生するイマジネーションなのである。そしてそれを求め認識するのもまた脳であるというアイロニーを表現しているのではなかろうか?科学と信仰というある意味矛盾した立場のものを芸術に昇華させたミケランジェロの偉大さを感じました。
生命の木=脳というのは創世記の解釈とかじゃなくて、
もともとの発想自体にあったと思う。
英語の解剖学用語はわからないからいえないけど、
日本語なら前頭「葉」、脳「幹」ってまさに樹木のアレゴリー。
アダムの肋骨からエヴァを作ったってのも、ユダヤ人が
解剖学に精通してたってことだろうし。