【Telegraph/etc】四本足で長い草むらの中を跳ね回り、喉が渇くと舌を出して一目散に走る。そして蛇口のところまで来るなり、彼女は手でかじるように地面を掘りながら、大きく口を開け、頭から浴びるように水を飲む。やがて喉の乾きが収まると、今度は首をひねって頭を振り、まるで川から上がった犬のように、水滴を振り払う。こんな彼女の姿を見たならば、誰しも、彼女は犬の物まねをしていると思うだろう。しかしまるで恥じらいもなく、迷いのない、彼女の真剣な所作を見るなり、見慣れぬ人はむしろ彼女に不気味ささえ感じるかもしれない。彼女は吠える。その鳴き声はもはや犬を真似る人間のものではない。それは本物の犬と何ら変わることのない、余りにも野性的で、どう猛な、犬の鳴き声なのである。しかしその鳴き声を出しているのは普通の服を着た、まだ若い、見た目はごく普通の女性なのだ。
実際の映像
ー 彼女を扱う別のドキュメンタリ番組
ウクライナに住む、オクサナ・マラヤ(23)は、幼いころ、犬の群れと共に生活しているところを保護された。彼女はこれまで世界で凡そ百例ほどしか知られない、”野生児”(Feral Children)の一人なのである。彼女は三才の時、アルコール中毒の両親によって、家の外へ置き去りにされた。まだ幼い彼女は本能的に生存を選んだのだろうか、飢えや寒さを凌ぐため、犬小屋の中へと這っていったという。以来、彼女の面倒を見るものが誰もいなくなると、彼女はそのまま、自分を受け入れてくれる犬の群れへと紛れ込んだ。彼女はただ生存するために、それまでに覚えた人間の言葉を失い、そのかわりに犬の鳴き声、そして生肉の食べ方を学んだのである。
それから五年の歳月が流れた1991年、近隣の住民が動物と暮らしている彼女を発見し、当局へ通報した。そのとき彼女は8歳、もはや人間の言葉を完全に忘却し、四本足で犬と共に草むらを走り回っていたという。五年の月日の中で、彼女に何があったか今では詳しく知る術はない。時には人間を遠まきから見つめ、どこかで出くわしたこともあったはずである。しかし彼女は、もはや自分が人間であることさえ完全に忘れていたのだ。
もしも保護当時の彼女の心理学的、そして肉体的な特徴が専門家によって正確に記録されていならば、それは心理学の世界で長く続く、遺伝/環境因子議論に大きなヒントをもたらしたかもしれない。しかし保護当時の彼女の様子について、残念ながら、詳しい記録は残されていない。それはおそらく、当局がこのような事件が知れ渡り、恥をかくことを恐れたためであると考えられる。それゆえ、"犬少女(the dog girl)"と呼ばれたオクサナの逸話は、これまで目撃者らの間で口伝された曖昧なものに終始している。それは「彼女は小動物のようだった。四本足で歩き、犬のように飯を食べていた。」といった具合である。
そして先月、オクサナのケースを調査するために、英国の児童心理学者リン・フライはウクライナに向かい、(ウクライナ人以外の)専門家としてはじめて、オクサナと面会した。今回リンは、彼女が本当に共同体の一員として生活できるのか(オクサナは現在、精神障害の為に施設で生活している)、また彼女が受けた精神的ダメージが現在ではどの程度残っているのかといった事を調査することを目的としてウクライナへと飛んだのである。
「彼女に会う前、私は彼女がまるで人間性を欠いた人物なのだと思っていました。彼女はとても怒りやすく、非協力的で、社交的でない人物だと聞いていたからです。しかし実際に会ってみると、彼女は私がお願いしたことはすべてこなしてくれたんです。彼女の喋る言葉は確かに奇妙でした。まるでそれが決まりであるかのように、その発音は平坦で、抑揚やリズム、トーンといったものが彼女の言葉にはありませんでした。でも彼女はユーモアのセンスを持っていました。皆の注目を集め、笑わせることが好きなんです。彼女の育ってきた背景を考えると、彼女がそうした技術を持っていることは驚くべきことです。彼女はとにかく印象的で、私がテストで使った木の玩具を彼女にプレゼントしたとき、彼女はとても感謝していました。表面的に見るならば、彼女が犬に育てられてたことなど、誰に知るよしもないでしょう。」
インタビュー映像の中のオクサナは、どこかぎこちないが、玩具を前にするとまるで子供のようにはしゃぐ。しかし彼女が歩く場面になると、その奇妙なステップ、肩を揺らして歩く独特の姿勢、落ち着きのない目線、歯の歪みが見てとれる。そして犬が骨を与えられた時のように、彼女は物をもらうと、必ずそれを隠そうとする。彼女の身長は150cm程と小柄であるにも関わらず、友人らとふざけて遊ぶとき、彼女はその小柄な体からは想像出来ないほどの強い力を発揮するという。また最も奇妙なことは、彼女は家で飼われるペットの雑種犬に全く注意を払わないということである。「彼女は時に犬を押しのけてしまうんです。人との結びつきの方が強いんです。」
リンが行った認知テストの結果、オクサナは丁度、通常の六歳児程度の知能レベルにあることが確認されたという。彼女は数を数えることは出来るが、足し算は出来ず、また文字を読んだり、名前を正確に書くことも出来ない。お気に入りの大きな腕時計を人に自慢こそするが、時計を読むことはできない。しかしこうした学習障害の傾向こそあれ、多くの"野生児"が見せるような、自閉症的傾向は見られないという。
通常、子供が(最初の)言語を習得するのはだいたい五歳までであり、そのタイミングを逃すと言語を習得することは非常に難しくなるという。しかしオクサナの場合、家の外に捨てられるまでの間、短い期間でこそあれ幼児言葉をしゃべっていた為に、今後言語を再習得することは可能であると、リンは分析している。現在オクサナが暮らす施設では、まっすぐに歩く方法、手を使ってものを食べる方法、そして人間らしくコミュニケーションを取る方法を彼女に教えている。
オクサナが家の外に放り出されて以来、両親は彼女のことを”完全に忘れていた”という。オクサナの記憶では、両親はいつも喧嘩して怒鳴り散らし、時にはオクサナを殴りつけることもあった。そして彼女は森へと消えたのだ。オクサナは今でも、頭に来ることがあると森へ行って吠えることがある。目撃者によれば、その声は人間のものなのか、動物のものなのかも分からないほど、真に迫るものがあるという。しかしもちろん今では、それら行為が社会的に決して容認されうるものでないことを、オクサナは知っている。
ドキュメンタリを撮影したリサ・プラスコは次のように語る。「今では、彼女はかつてのように吠えてはならないということを、きちんと教育されています。でも私自身の見解では、彼女は今でもこっそりと吠えていることがあるのではないかと思います。映像に使われた彼女の声は、多少音量を上げていますが、確かに彼女は今でもそういう声を出すことが出来るんです。」またオクサナには以前、ボーイフレンドがいたこともあった。しかし彼女はかつての自分の事を説明しようと犬の"真似"をしたところ、彼はひどく動揺し、オクサナから逃げてしまったのである。
現在、オクサナは施設の牧場で牛の面倒を見ることをとても気に入っているという。「これがセラピーになるのか分かりませんが、オクサナは自分自身がやりたいことをやっているんです。」そしてリンが向かう数週間前、オクサナはかつて自分を捨てた父親と再会した。母親は今では全く足取りが掴めないという。「彼女が父親に会いたがっていたことは知っていました。私たちはそのお膳立てこそしましたが、後は彼らに任せました。」プラスコは語る。一方リンは、彼女と父親の再会を不安に思っていた。「彼女を父親と会わせるのはとても危険なことだと思いました。何が起こってもおかしくない。彼らは永遠に決別してしまうのではないかとさえ思ったんです。とても緊迫していて、誰かが彼女の側にいて、手を握っていてあげなければいけないような状況でした。」(写真はオクサナが描いた絵)
そして番組で描かれた再会の場面では、まずオクサナの元へ父親と、そして彼女がまだ見たことのない腹違いの妹、ニナが歩み寄っていった。オクサナの友人たちは、彼女の再会を不安げに、遠くから見守った。彼らはぎこちなく、ゆっくりと互いに歩み寄った。三人とも口をつぐんだまま、沈黙だけが支配した。そしてしばらくしたのち、ようやくオクサナが口を開いたのである。「こんにちは」彼女が言うと、父親は答えた。「来たよ」 彼らの会話はどこか、社交辞令のようにつたなかった。「来てくれてありがとう。私が牛の乳を搾るのを見てほしかったの。」リンが言うと、ニナは泣き始めた。オクサナは彼女をなだめるようにそっと腕をまわしたー。
オクサナには夢があった。それはもう一度父親のもとに戻り、再び一緒に生活を始めることである。しかしリンによれば、それはまだ、あるいは今後も叶わない夢かもしれないという。父親の生活は今や困窮しきっており、またリンも、オクサナが施設を離れて生活していくことは、現段階では難しいと判断しているのである。「彼女はまだ社会的に、そして個人として生活していくだけの技術がありません。ボーイフレンドを作ったこともありますが、長期的な関係を築くことも、他者と支え合って生きる術も、まだ知らないからです。」
オクサナは今後も、科学的な調査対象として研究が進められることになるという。しかし悲しい現実とは何よりも、彼女の暗い過去がもはや完全に過ぎ去ったにも関わらず、彼女は今後、これ以上成長することが、極めて難しいという事実なのである。「彼女はとても傷つきやすいのに、施設の外に出たらそこには何も彼女を守ってくれるものはないんです。」リンはそう語っている。
【参考】野生児
野生児(Feral Children / Wild Child)とは、一般に幼くして人間と隔絶された世界に暮らし、人間の社会的行動様式や言語に非接触のまま育った子供の事を指す。有名なケースでは1799年にフランスの森で発見された通称"アヴェロンの野生児(※1)"や、19世紀ドイツで発見されたカスパー・ハウザー(※2)、インドのアマラとカマラ(※3)などが挙げられる。また最近では13年間に渡って暗闇に軟禁された米カリフォルニアのジェニー(※4)という少女のケースもある。本文中にもある通り、これら野生児のケースが常に科学者の間で注目を集めるのは、心理学や精神分析の世界で長く続く、人間は生来的に知性と理性を備えた人間であるのか、或いは生まれながらには動物と変わらず、環境によってそれら人間性が形成されるのかという議論(環境/遺伝因子議論)に重要なヒントをもたらすと考えられているからである。
しかしまた、これら過去の「野生児」のケースについては、いずれも科学者の手による学術的な記録として残されたものが少ないため、例えば「アマラとカマラ」のように"動物が人間を育てる"という解釈について、疑問を呈する声もある。また例えばジェニーのような現代のケースにおいても、倫理的問題から情報公開が制限され、科学者らによる調査も人道的観点から批判を受けるために調査に限界がある(その治療プロセスそのものが、見方を変えれば人間を利用した"実験"足りえてしまうからである)。それゆえ、野生児を巡る議論は決着を見ないまま、今日に至っている(写真は初代ローマ王とされる、ロムルスと弟のレムス。彼らは狼に育てられていたという逸話を持つ)。
※1.アヴェロンの野生児
1799年、フランスのアヴェロンの森で保護された野生児。後にヴィクトールと名付けられた。保護当時の推定年齢は12歳程で、他の野生児らと異なり、"動物に育てられた"わけではなく、木の実や動物の肉を採取し、独力で森の中で生きていたと推測されている。言語は知らず、人間らしい感覚や感情表現は見られなかったという。保護された後はイタール医師によって6年間に渡って教育が施され、日常的な基本生活習慣こそ形成されたが、言語は結局ほとんど習得することず、同年齢の人間に追いつくことはなかった。今日では野生児の典型例の一つとして紹介されることが多いが、もともと精神発達遅滞の症状を持っていたのではないか、という指摘もあり、純粋な意味での野生児の例として疑問視されることもある。イタール医師の記録はアヴェロンの野生児―新訳 ヴィクトールの発達と教育で現在も読むことが可能である。
※2.カスパー・ハウザー
19世紀ドイツで保護された"謎の少年"。社会的阻隔を受けていたという意味で野生児と同一的に扱われることが多いが、実際には人工的な監禁状態にあったため、文化剥奪児という意味以外では、「野生児」と異なる。詳細は以下を参照。
- X51.ORG : 1828年独、闇の中から現れた少年カスパー・ハウザーの謎
※3.アマラとカマラ
1920年頃、インドで発見された"狼に育てられた"姉妹。狼に育てられたとされる二人は、キリスト教伝道師ジョセフ・シング牧師によって保護された。シングは幼少時に親に捨てられた少女たちが狼の母親に育てられたと発表し、文明から切り離されて育てられた人間(野生児)の事例として有名な逸話となった。しかし、その後の調査で疑問点が多々指摘されており、現在は「実の親にある程度まで育てられた自閉症児が捨てられたのではないか」との説が有力視されている。
- アマラとカマラ - Wikipediaより引用
- 狼に育てられた子―カマラとアマラの養育日記
- “オオカミに育てられた少女”は実在したか
※4.ジェニー
1970年11月、カリフォルニア州アルカディアで発見された少女。ジェニーという名前は仮名であり、現在までその実名はプライバシー保護の為に明らかにされていない。彼女は1957年4月に生まれた。彼女の母親は盲目で、母親よりも20歳年上の父親は、鬱病だったという。生後20ヶ月のとき、ジェニーの両親は医師から彼女が軽度の発育遅滞を患っていると告げられると、父親はひどく落胆し、ジェニーを治療し、「保護する目的」で、彼女を監禁した(彼女の事件はインディペンデント映画"Mockingbird Don't Sing"のモチーフにもなっている)。
以来、ジェニーはベッドルームの中に一日中閉じこめられ、おむつを付けた状態で、椅子に縛りつけられていた。そして夜になると、寝袋の中に押し込められて縛り上げられ、鉄製の扉のついた部屋に監禁された。ジェニーが叫び声や助けを呼ぶような声を上げると、父親は彼女に激しく怒鳴りつけ、静かにするまで彼女を殴りつけた。その結果、彼女は保護された後もほとんど聾唖のように言葉を発さず、「Stopit(やめて)」「nomore(もうやめて)」といった幾つかの短い言葉しか喋ることが出来なかったという。
ジェニーが13歳の時、母親がジェニーを連れて家から逃げ出し、異常を見抜いた医師らによって当局へ通報され、彼女は保護された(父親はジェニーの救出直後に自殺した)。彼女は当初、6歳か7歳だと推定されたが、その後13歳であることが明らかにされ、虐待による精神障害が見られたため、彼女はまず小児病院へと送られ治療が行われた。ジェニーはそこで、動物のように手を前に突き出して、奇妙な"ウサギのような歩き方"をし、頻繁に周囲の臭いをかいだり、つばを吐いたり、爪で何かをかじるといった行動を見せたという。また言葉を発することはほとんどなく、場所を問わずに頻繁にマスターベーションをすることがあり、マスターベーション出来そうな物を常に欲しがったと記録されている。しかし病院に入院して間も無く、彼女の症状は改善の徴候を見せ、幾つかの言葉を習得すると、徐々に言葉を発するようになり、服を着ることを覚えた。
その後米政府の支援のもと、ジェニーの教育、治療を担当する専門のチームが結成され、彼女の社会復帰を支援した。しかし、彼ら科学者が行った教育や幾つかの実験は、子供を利用した「禁断の実験」であるといった批判を浴びた。更にその後、母親がチームの治療自体がジェニーを精神的、肉体的に疲弊させるものであるとして、チームを告訴したことがきっかけとなり、ジェニーの組織的な治療、教育は中止された。そして彼女は、一度は母親のもとへと帰されたが、家庭で育てていくことは困難であるとして、結局再び幾つかの孤児院や精神障害者の施設を転々とした(そして彼女はまたそこでも虐待を受けたという)。彼女の母親は2003年に死亡し、現在ジェニーはカリフォルニア南部の施設に収容されている。
- Genie (feral child) - Wikipedia, the free encyclopedia
- FeralChildren.com | Genie, a modern-day Wild Child
- 隔絶された少女の記録
【関連】X51.ORG : ニワトリに育てられた男 フィジー
- X51.ORG : "四足歩行する家族"― 逆進化説を巡って議論に
- X51.ORG : 犬に育てられた少年 シベリア
- X51.ORG : 16年間、空港で生活する男 フランス
- X51.ENEMA: 生まれつき二本足の犬が普通に二足歩行 中国
- X51.ANIMA :クラオ - ザ・チンパンジー・ガール