想像してみて欲しい。誰も知らない時代に、誰も知らない場所で、誰にも知られない文字で、書かれた一冊の書物がある。これは決して空想の書ではない。「ヴォイニッチ手稿(VionichManuscript)」と呼ばれる中世のいつかに何者かによって書かれたこの謎の書物は、これまで長年に渡って科学者や歴史家達を悩ませてきたのである。このヴォイニッチ手稿は1912年、イタリアのローマに程近いモンドラゴーネ寺院書庫で、アメリカの古書収集家ウィルフリッド・ヴォイニッチ(書物の名前は彼の名前に由来する)が発見した。彼はこの不思議な手稿を発見するなり、内容の異様さと潜在的価値を見定めて、その「読めない書物」を購入した。そして彼は手稿をアメリカに持ち帰ると、はじめは自力での解読を試みたが、それが無理だと悟るや否や、コピーを作成し、古文書学者、暗号学者、歴史家、言語学者、哲学者、更には天文学者から植物学者といった様々な分野の専門家に解読の手助けを依頼した。その後ヴォイニッチ手稿は彼らの膨大な知識を動員して解読を試みたにも関わらず、"未だに読まれていない書物"のままなのである。
ヴォイニッチ手稿は少なくとも116枚の羊皮紙から成立していると推測されており、現存するのはそのうち104枚。ページのサイズは主に6"×9"(約15cm×約23cm)で、そのうち何枚かは、2重もしくは3重に折りたたまれているページもある。一番大きいページは18" × 18"(70cm × 70cm)のものさえある。中に描かれた挿絵と文字は独特で、前述の通り、未だに解読されていないために、挿絵がわずかに内容の推測を助けるのみである。また、それら挿絵を見る限りでは未知の植物についてが多いことから、書物はおそらく自然科学の何かについて書かれた本であると推測される。本の中は、以下のようなセクションに分かれている。
1 . 天文学(占星術のシンボル挿絵入り)
2 . 生物学(幾つかの疑似解剖図と人体図のドローイング入り)
3 . 宇宙学(難解な幾何学図形入り)
4 . 薬学 (瓶と植物の部分挿絵入り)
5 . レシピ(ほとんど簡単な文章のみ)
文字は数種類の絵文字から構成されており、それらはさらに数種類の基本的なシンボルの組み合わせから構成されている(シンボルの数は凡そ24~36)。全書中で5000以上の異なる絵文字が使われており、単語を形成していると見なされているという。また中には書中1度から2度しか使われない文字もあるが、単に文字の筆写ミスという見方も出来るため、その意味する所は定かではない。
書中で使われている単語群の分析結果によると、自然言語の一般的な分布に従っているものの、ラテン語、英語などの単語の平均的な長さよりも文字数は少なく、これらの文字が非常に古い言語の省略文字で書かれた可能性も示唆している。あるいはそれらをハッシュ暗号、もしくは古いハミングコードとして解読を試みる事も出来るが、その場合は元になるハッシュ表が現存しなければ、まず解読は不可能になる。
文章はすべて異なる2種類の言語で書かれている。最初のパートは言語A。ここでは「8AM」というように見える、単語が頻繁に現れる。最後のセクションも再び同じ文字で描かれているものの、単語の分配率は異なっており、そこでは「8AM」という単語は余り登場しない。この事実は文章の主題、もしくは書き方、言語あるいは暗号の強度が変化したという事と、この暗号が順応性のあるものではなく、ストリーミング暗号でも置換式の暗号でも無い事を指し示していると考えられるのだ。
またもう一つの重要な問いとして、この文章には、違う言語で書かれた原本が存在するのかどうか、という問題がある。そもそも我々が見ているのは言語なのか。誰かが個人的な代理文字で著した文章なのか。あるいはこれはラテン語、ギリシャ語、イタリア語、ドイツ語、英語、サンスクリット語、ヘブライ語、、いずれかの言語を暗号化したものなのか。それさえも明らかではない。
そして最も難解な問いは、その文法である。単語の配列順序、単語の出現率、いずれもまだ謎が多いが、ひとつにだけ確かな事実は、「8AM」という単語が連続して現れることである。これはおそらく接続詞として使われている可能性が高い。
平均的な単語の長さは英語やラテン語よりも短いという事は既に述べた。これは同時にフランス語やイタリア語、ドイツ語よりも短いことを示している。しかしながら、ヘブライ語に関しては多少の類似可能性が考察できるかもしれない。初期のヘブライ語は母音を持たないというユニークな特徴があるからである。この特徴は各言語における単語の平均的長さに比べて、およそ20%から30%ほど単語を短くする事を可能にする。この手稿の著者がユダヤ人、もしくはカバラかトラー(共にユダヤの神秘学)を学ぶ者だったとすれば、ヘブライ語を使うは可能だったと推測できる。また仮にヘブライ語と関係がなかった場合でも、元となった言語が母音を持たない言語である可能性が推測できる。あるいはまた、部分的に母音を抜かれたラテン語、イタリア語、フランス語、英語などを元にした可能性もあり得るが、ドイツ語に関していえば、ドイツ語の単語は大抵英語のそれよりも30%程度長いので、その可能性は低いと言えるだろう。
しかし母音の省略に関していくつか考察すべき点がある。多くの西欧言語の場合、ある文字から母音を抜くと、残るのが一文字になる単語も多いために、意味がわからなくなることが多い(例えば英語の「to」は母音をとれば「t」一文字となってしまい意味不明になる)。一方、セム系の言語(ユダヤ系言語)では一般的に単語や動詞の中に発音や前置詞を組み込むために、英語に比べれば意味は消失しづらいのである。また手稿の特徴(ドットの使用、単語の区切り、文書構造の欠落)から、この手稿が西暦1600年よりも古いものとする説もある。ある研究者はこの手稿を西暦1350年前後に英国のフランシス・ベーコンの仕事であると結論付けたが、いまだ真相は明らかではない。
【参考】The Most Mysterious Manuscript in the World[日本語] | VionichManuscript全コピー
EVMT Project Home Page (英バーミンガム大学) | The Alchemy Web site
Stolfi's Voynich stuff - Index Page
【関連】解読不能の書 ヴォイニッチ手稿はデタラメか (1)"
- 解読不能の書 ヴォイニッチ手稿はデタラメか (2)"
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さて、ヴォイニッチ手稿について、思い出したことがありましたので投稿させて頂きます。
ヴォイニッチ手稿の研究者、解読の挑戦者として、参考リンク((3)解読への試み(1944-1986) )でも触れられていたウィリアム・フリードマンですが、上記ページ内では「残念ながら、勤務時間後の作業で、文章を記号に写し換え、表にする過程が完成した段階で戦争は終わり、グループは解散した」と、解読途中で中止されたような書き方をされていました。
が、以前に読んだR・W・クラークの『暗号の天才』(フリードマンの伝記)によれば、確か米政府の暗号機関を退職した後、独自に研究を続け、最終的にある結論に達したと書かれていました。
その結論が何であったかは覚えていませんが、「ヴォイニッチ手稿」というものの存在を初めて知ったのがこの『暗号の天才』だったもので、そこだけは妙に覚えています。
ご参考まで。
『暗号の天才』中にあるというフリードマンの結論は、
解読の結論ではありません。
ヴォイニッチ手稿についての彼の自説を暗号文である雑誌に掲載し
3名がその解読を名乗り出ましたが、どれも間違いで、
フリードマンの死後明かされた答えは
「ヴォイニッチ手稿は、ある種の人工語が世界共通
語を直感で組み立てようとした初期の試みである。フリードマン」
が正解でした、という結論。