【参考1】”・・・レーリッヒは、ある「谷」まできて、ラサからの命令によりそれ以上進むことができなくなる。一行は、真冬の五ヶ月間をそこで過ごすことを強いられ、大部分の者が飢えと寒さで悲惨な死を遂げた。マハトマは助けにこなかった。なぜ、この「谷」に入ることを禁じられたのだろうか?この谷こそ、イリオンが入った地下都市への入口、サンポ渓谷だったのだろうか?わたしは、レーリッヒの息子ゲオルゲ・レーリッヒがまとめた"Journal of Ursvati"(Roerich Museum 1932)に、この谷について興味深い記録を発見した。1627年、ステファノ・キャセラ、ヨハネス・カブラルという二人のイエズス会士が、中国に行くルートをみつけるためブータンを訪れたときに、シャンバラの存在を知った。
「チェンベラと呼ばれるとても有名な国が実在する。それは、ソグポと呼ばれる渓谷と境を接し・・・・」イリオンの記録したサンポ(Sangpo)とキャセラの書き残したソグポ(Sogpo)とは、あまりに似ている。この二人のイエズス会士も、シャンバラには辿り着けなかったのだが、イリオンの書き残した地名の信憑性を、裏づけているように思える。”
【参考2】”・・・イリオンの参入した地下都市は、中央チベット・サンポ峡谷の谷あいの一つに位置していた。幅10メートルの縦穴を中央に、(...)境界標識となる白い巨石版が三つ立っている。ロシアの探検家ニコライ・レーリッヒもまた、「我々もシャンバラにある三つの白い境界標識のうち一つをみた」と興味深い記述を日誌に留めている。同一のものであろう。”
以上は、チベット永遠の書(テオドール・イリオン)より抜粋。尚2点とも、著者イリオンのものではなく、訳者の林陽氏が追記した部分である。以下は、上記2つの情報を前提として進める。また特に断りがない場合、レーリッヒと記した場合は、父であるニコライ・レーリッヒの事を指す(時にニコラス・リョーリフ等とも言われるが、本項ではニコライ・レーリッヒに統一した)。尚、シャンバラ伝説について基礎知識が無い方は先に本項下の【付記1】を読むことをおすすめする。
今回の視察では、まずシャンバラの位置を特定するため、テオドール・イリオンが書き残した「サンポ峡谷」、そしてロシアの画家ニコライ・レーリッヒの本に示される、イエズス会士の記した「ソグポ峡谷」なる地域の存在について調査を始めた。そして、現地で得た情報から推測するに、彼らがそれぞれ別の名で示した峡谷とは、おそらくチベットの南東部に位置し、ガンジス川の源流のひとつとしても知られるチベット最大の秘境「ヤルン・ツァンポ大峡谷」であることは、ほぼ間違いないという結論に至った(※1)。
その理由として、まず彼らが記した呼称を巡って、ラマ僧をはじめ、チベットに精通したベテランの現地人ガイドなどに再三、「サンポ、もしくはソグポ(他ソンボ、サグポなど)なる地域がチベットに存在するか」と尋ねてみたものの、いずれも答えは「聞いたことがない」か、もしくは「発音の間違いではないか」と言われ、しばし「ツァンポ大峡谷」ではないかと指摘されたことによる(※2)。また、それを確かめるべく詳細な地図及び文献等を入手し、チベット全土を徹底的に調べてみたものの、やはり彼らの呼んだ峡谷は、それに近いものでも、いずれも存在していなかった。つまりここで、イエズス会士、そしてイリオンの到達した谷は、共にツァンポ大峡谷だったというひとまずの推測に至った。
そしてここで問題になるのが、ニコライ・レーリッヒが到達した「谷」(参考1)、そして「境界をみた」というシャンバラの入り口が一体どこかという事である。イリオン本には、レーリッヒが見たのは、イリオンがサンポ峡谷で見たものと同じ「シャンバラにある三つの白い境界標識」(参考2)、とだけ記されているものの、同書内では、その引用元が示されていないため、それがいかなる「日誌」からの引用なのか、そして一体どの地点で見た物なのかが分からなかった(参考1の記述自体は訳者の林陽氏がレーリッヒの本から引用追記したもので、イリオンの原著「Darkness over Tibet」には同様の記述はない)。
しかしまた、ここでニコライと全行程を共にした息子ゲオルゲ・レーリッヒのアジア探索記「TRAILS TO INMOST ASIA」を調べたところ、そこには1928年5月、レーリッヒ一行が実際に「Tsangpo(=ツァンポ大峡谷)」と呼ばれる谷に滞在したことが記され、また確かに、レーリッヒの同時期(1928/5)の記述において、それから5ヶ月の間、チベットにおいてレーリッヒ一行が【参考1】のような状況に直面していた事が記されているのを確認した(※)。
従って、上記の推測を前提として(即ちもしイリオンの見た峡谷がツァンポ大峡谷だとするならば)、イリオン=レーリッヒを結ぶ「境界」とはやはり、「ツァンポ大峡谷」に位置するものに他ならないのではないか、というのが今回、まず一つの結論である。つまり、これでイエズス会士、イリオン、レーリッヒがそれぞれ記した「谷」が「ツァンポ大峡谷」というキーワードで繋がった形となる。
※その様子は、「Altai-Himalaya」の前書き(xvi)で、レーリッヒがチベットからニューヨークへ送った書簡の中に記されてされている。下記※B、及び本項下の【付記3】も参照。
つまり整理すると以下のようになる。
1.イエズス会士が聞いた峡谷 = ソグポ峡谷(Sogpo):ブータンからヒマラヤを超えた場所。そこにはシャンバラという国(チェンバラ)が存在する(※A)。
2.イリオンが見た峡谷 = サンポ峡谷(Sangpo):地下世界への入り口で、「境界」があった。
3.レーリッヒが到達したシャンバラの境界と谷 = 場所不明。しかし現場の記述はイリオンのものと一致することから、それはサンポ峡谷=ツァンポ大峡谷であると推測。また上述の通り「TRAILS TO INMOST ASIA」を読む限り、レーリッヒは実際にツァンポ大峡谷を訪れたことが明記されいてる(※B)。
4.現地で得た情報 = ソグポ峡谷、サンポ峡谷共に存在せず。しかし1,2,3.の条件を満たし、発音が似たものとして「ツァンポ大峡谷」ならば存在する。
※A.また補足として、1.イエズス会士らによる記述の地理的条件(チェンバラはブータンからヒマラヤを超えた地点)とツァンポ大峡谷は位置的にも一致するため、イエズス会士らが指摘したソグポ峡谷は、やはりツァンポ大峡谷と見てほぼ間違いがないと思われる。
※B.詳しくは後述するもののレーリッヒの著述には、しばし情報の欠落、錯綜が見られる。アジア探索の記録そのものに関していえば、レーリッヒ自身の著書「Altai-Himalaya」は、日誌というよりはむしろ随想的内容がその半分程度を占めており、正確性に欠ける(それはそもそも出版を目的としたものでない、単なる個人的な日記であったせいでもある)。その点、後にチベット民俗学者となったゲオルゲ・レーリッヒの著書は、日付と共に出来事、場所が叙事的かつ正確につづられている為、レーリッヒ一行の行程を知る上ではより有用である。従って、レーリッヒの行程について調べる上では両者を組み合わせないと分からない情報が多々ある。例えば、1928年5-10月の記述において、レーリッヒの「Altai-Himalaya」には、チベットであるという事以外、Tsangpoはおろか、地名自体が出てこない。またこのあたりの錯綜については、本項下【付記3】も参照。
しかしまた、それならばツァンポ大峡谷を訪れることが出来るか、とガイドに尋ねたところ、答えは一様に「まず不可能」とのことだった。理由として、まず同地域はまだ1993年になってようやくその存在が公にされた言わば秘境中の秘境地域であり、現在も中国政府によって観光はもちろん、調査なども厳しく制限されていること(特に外国人は公安による特別な訪問許可証が必要であり、インド国境に近い同地域について発行はまずあり得ない)、また仮に許可証を無視して車をチャーターして向かった場合でも、途中の街で公安、もしくは軍(同地域のツァンポ川下流部は軍事施設が多数存在する)に発見され、連れ戻される(最悪逮捕される)可能性が極めて高いといった政治的事情がある(※3)。
そして更に、仮にそれらの検問を潜り抜けたとしても、同地域はチベットからインド(あるいはブータン)へとまたがるチベットでも屈指の険路であり、ある地点から先は車道さえも無くなるため、その先にある5000mクラスの雪山を徒歩で超えて行かなければならないといった地理的事情が挙げられる(写真は同地域の衛星写真。またツァンポ大峡谷と一言に行ってもその長さは数百キロメートルに及び、イリオンが見た峡谷内の具体的位置までは不明だったことも挙げられる)。
- 参考:Google Localにおける同地域周辺衛星写真 / Space Imaging
上記の事情から、今回、現地への進入を断念することとした。しかし実際のところ、ガイドに聞いた話では、同峡谷を含むコンポ地域は秘境と呼ばれるチベットにおいてなお、現地人でさえ最も危険な地域として恐れるほど、謎の多い地域であることは間違いがないようである。それはまず、チベットきっての険路であることもさることながら、同地域には未だチベットの主流宗教であるチベット仏教とも、あるいはボン教とも違う、呪術的儀式、土着の信仰などが行われていることが挙げられる。
一説には、同地域はチベット黒魔術の源流とも言われており、事実、仏教が伝播する以前は厄除け目的で、人を使った身代わりの生け贄儀式などが盛んに行われていたという(これはイリオンがシャンバラで目撃したという「生体を使った儀式」のエピソードを彷彿とさせると言える。またそうした儀式の存在については、レーリッヒも「Altai-Himalaya」に記述しているが、地元にしがらみのない旅人は、しばし”身代わり”の対象として格好のターゲットになったという※4)。
現在では、流石にそうした儀式はさすがに行われていないと思われるものの(※)、中国侵攻以前であるイリオンらの時代には、そうした地域が如何なる状況であったかは推して知るべしであるといえる。また、コンポ地方には古くから「悪魔の塔」と呼ばれる監視塔(望楼)が数多く点在しているものの、その多くは建立年月はおろか、その目的さえも不明であり、同地域の不気味さを引き立てている。
※それでも特にインドに近いヒマラヤ周辺には土着信仰を持つ少数民族が数多く居住しており、インド(アルナチャル・プラデシュ州)とチベットの国境(事実上、国境未確定地域で現在ももめている)を勝手に行き来しながら遊牧民的な生活を送っている為、その実態はおろか、正確な人口さえ定かではないという。例えば1999年のチベット自治区統計では、3000人弱とされているものの、別の調査では10万人を超えるとも試算されたように、その実態がほとんど把握されていないことは明らかである。
そしてまた、ツァンポ大峡谷へと至る地域は、チベット仏教ニンマ派の開祖として知られるグル・リンポチェ(※)が”隠された地上天国(ベーユル)”、即ち、<地上世界>における最大の聖地と定めた広大なペマ・コ平原(平原といっても実際はジャングル)が広がっており、その先に存在する最大高低差6000mクラスの大峡谷 ― おそらくイリオンの言う“Valley of Mystery” ― の存在と対比的なコントラストを作っている。
※イリオン本にはグル・リンポチェと対を為すように、”悪魔の王子”マニ・リンポチェなる人物が描かれているが、そのような人物が実在したかは不明。
またこれらの壮大な奇観が、20世紀初頭における西洋人、ロシア人らの探検によって目撃され、それがラマ僧らが口々に語るシャンバラの逸話、同地域に暮らす先住民らの信仰や儀式といった独特の文化の伝聞、逸話と合成され、チベットにおける<地下世界>として、現代の「シャンバラ」あるいは「地下王国伝説」が形成される一助を果たした可能性は非常に高いと思われる(詳細については【付記3】参照)。
よって、残念ながら、今回はひとまずイリオン本における、あるいは実在としてのシャンバラの位置推定(※5)というところでこれ以上の捜索を断念し、今後、機会があれば、いつかツァンポ大峡谷=シャンバラの捜索に向かいたいと思った次第である。
※以下は(断片的ではあるものの)、注釈を兼ねた参考情報等。
(ヤルン・)ツァンポ大峡谷とは、1993年、中国政府の派遣した探検隊によって初めて本格的な調査が行われた峡谷。Tsangpoとは元々チベット語において”浄化”あるいは"清める"といった意味があるという。調査の結果、その高低差は最大で凡そ5400m(一説には7000m超)にも及ぶ事が明らかになったため、事実上、米国のグランド・キャニオンを凌ぐ「世界最大」の大峡谷になると言われる。いまだ十分な調査が行われておらず、その全貌は明らかにされていない(また1993年の調査には、日本の調査隊員も参加したが、そのうち一人は同峡谷で行方不明となったという)。
【参考1】に示される通り、同地域はイリオンの記述ではサンポ[sangpo]とされており、またイエズス会士の聞いた峡谷はソグポ[sogpo]とされているが、それは現在の正式な呼称、ツァンポ大峡谷[zangpo]に極めて近い。そしてまた、現地人の実際の(中国語)発音はツァンポよりもザァンポに近いといったように、彼らの記した呼称は、チベット語を英語/ロシア語で表記した際や、中国語、更に日本語に翻訳/置き換えた際に派生した誤差の範囲として考える事が出来る(これはチベット等、西アジア文化圏の地名においてよく見られる)。
あるいはまた、同地域は、もともとチベットの中でも少数民族が数多く暮らす地域であることから、彼らの記した呼称の<微妙なズレ>は、それぞれが峡谷の名を聞いた、いずれかの民族の方言による<発音のズレ>が原因であると考えられる。またこれは、イエズス会士が現在のシャンバラ(Shambhala)をチェンバラ(Xembala)と微妙に違う呼称で呼んでいたこと等からも明らかである。
今年は、中国による”チベット解放”40周年記念の年であり、中国公安当局による、外国人旅行者に対する監視が特に厳しかった。また丁度視察に前後して、チベットの北にある東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)では中国政府に対する大々的な武装蜂起を示唆する予告が為されたという報道(真偽は不明)もあり、同じ自治区であるチベットにも緊張感は見られた。またツァンポ大峡谷の下流にあたるツァンポ川周辺及び下流部までは一般人でも何とかトレッキング出来るものの、ツァンポ渓谷の深部はまだほとんど未開の地域にあり、そこまで到達するにはかなり大がかりな準備、そして当局への許可といった周到な根回しが必要になるとのことだった。
そもそも身代わりの儀式は、かつてボン教でも行われていたもので、例えば人が死ぬと、連れ立つ生け贄として動物を殺す儀式が存在していたことは有名である。また現在でもその名残はある。例えばチベット全土において、しばし車道の真ん中に不気味な蝋人形のようなものが置かれているのを目にするが、それは即ち、病気を患った人や不幸が続いた人が、念を込めた人形(自分の身代わり)を車に轢かせることで、厄除けを行うものであるという(ちなみにこれを写真に撮ろうとしたところ、ガイドに制止された)。
また余談ではあるものの、こうした”身代わり”を使う儀式はチベット文化圏で広く見られるものである。中国の三国時代には、蜀の諸葛亮孔明が現在の雲南省周辺(※)に南征に向かった際、現地では毎年川が氾濫する度、大勢の人の首を切り落として川に投げ込むという風習が行われていた、という記述が残されている。
※雲南省は、実際のところ、今では既に漢化されたチベット自治区よりも”チベットらしい”と言われる程、チベット文化が色濃い地域である。
またそれを不合理に思った孔明は、人頭の代わりとして小麦粉を練らせ、中に豚肉を詰めて”頭”を作り(即ちこれは人形を作ることに似る)、それを代わりに川へと投げ込ませることで、(儀式の形式だけを保ちながら)その風習を断ち切ることに成功したという。またこれが、現在我々が口にする饅頭の起源となったことは言うまでもない。
今回、調査を始めてまず突き当たったのは、シャンバラに関しては余りにも多くの文献、言及が存在するものの、それらの多くがいずれかの点において常に欺瞞、矛盾、あるいは他の伝説との結合による情報錯綜を孕んでいると言う点にあった(詳しくは【付記1】ほかを参照)。従って、今回のシャンバラ視察ではまずそれらの情報、歴史を整理するところから始めたが、それらから得た情報と、上記の推測とを照らした結果、余りにも誤情報が多いことは事実であるものの、それでもシャンバラ、或いはその源泉となった場所は確かに存在し、その可能性が最も高いのは、やはりツァンポ大峡谷なのではないか、という結論に至った。
特に今回のシャンバラ捜索においてはイリオン本、及び一連のレーリッヒの著作を資料として最重視したが、実際のところ、「実在」としてのシャンバラについて触れた本は極めて少ない(というより無いに等しい)。70~80年代の所謂ニューエイジ・ブームにおいては、西洋において膨大な数のシャンバラ(シャングリラ)本が出版されているが、その多くは「ラマ僧から聞いた意味深な話→アジア放浪するも発見出来ず→実はシャンバラは私たちの心の中にあった」といった<ありがちな>流れの物が多く、今回の視察においてはあくまでも実在としてのシャンバラを重視したため、それらの本は一切資料としていない。
しかしまた、昨年11月に出版された「The Heart Of The World: A Journey To The Last Secret Place」は、イリオン程ドラマチックでこそないものの、実在のシャンバラを追いかけた本として参考になるものであった。同書はカトマンドゥ在住の英国人イアン・ベイカー(氏は現地語にも通じ、チベット文化の研究者として有名である)によるもので、ベイカーは1993年から数度に渡って、チベット仏教の経典に描かれていたという「幻の滝」及び「シャンバラの入口」を求めてペマ・コ平原とツァンポ大峡谷エリアへの探索を繰り返した経緯を記している(しかし中国政府からは探索中止の圧力を受け、結局、全て無許可で行ったという)。
そして1998年には、ナショナル・ジオグラフィック誌後援のもと、1993年の中国政府の調査以来となる大規模な調査が行われ、現地先住民のハンターに導かれて実際にペマ・コ平原内で高低差30mの「幻の滝」を発見した経緯が克明に記録されている。ちなみに同書のまえがきはダライ・ラマが担当している。
しばし、特に西洋世界においては「シャンバラ」と「シャングリラ」、更に「アガルタ」は全て同一視される事もあり、現代においてはいずれも、あたかも「理想郷」の代名詞として一般化しているが、厳密には、それぞれの起源は異なっている。
「シャンバラ」という名は元々、11世紀頃に成立したチベット仏教の経典のひとつ、カラチャクラ(時輪タントラ、参考:砂のカラチャクラ曼荼羅)における概念(※)の名である。原文はサンスクリット語により、解釈については様々な説があるが、要は概して理想世界、幸福などを意味するという。
そのシャンバラが、西洋人によって初めて描かれたのは、おそらく1624年のステファノ・キャセラ、ヨハネス・カブラルらイエズス会士の記録である(【参考2】)。彼らはブータンで聞いた民間伝承として、ヒマラヤの先にある伝説の国の名を「XEMBALA」であると記している(チェンバラ、元はラテン語かあるいはポルトガル語であったとされるが、不明。※)。
※また1827年頃にはショマ・デ・コロス(Csoma de Koros)という名のハンガリー人言語学者がチベットまで徒歩で向かい、4年間に渡って様々な寺院を転々としながらシャンバラ、あるいは同様の伝承についての情報を集め、それを西洋に持ち帰ったという記録が残されている。またその中で、コロスは、シャンバラが北緯45度から50度の間にあると指摘しているが、それはアッケム地方にある白い湖を指していたのではないかという推測を、レーリッヒは行っている(「Altai-Himalaya」P348)。また現地語で白い水を意味するこの言葉は「ベロボダイ(Belovodye)」と呼ばれ、しばしシャンバラ等と並び、ロシアなどでは伝説の国の名として伝えられている。しかしコロスの行動については現在ほとんど知られておらず、レーリッヒらの著作や、レーリッヒの信奉者であったアンドリュー・トーマスの「Shambhala Oasis of Light (Andrew Thomas,1976,絶版)」にわずかに触れられているのみである。
そして18世紀中頃にはパンチェン・ラマ3世によって経典の解説として、シャンバラへの到達方法を解説した書物「シャンバラへの案内書」(元はチベット語)が記された。同書は元々瞑想など修行の方法を記したものであり、シャンバラが決して現実的な「実在の場所」でないことを示唆していたが、それを読んでシャンバラを「実在」のものと捉えたドイツの探検家アルバート・グルンウィデルは、その著書「Der Weg nach Shambala(1915)=シャンバラへの道」に前書の記述を翻訳して掲載し、にわかに話題を呼んだ。
またそれに前後して、インドでの修行を終えたブラヴァツキー夫人がニューヨークで神智学協会を開設し(1875)、シャンバラ的逸話を含むチベット仏教の概念を西洋へと紹介すると、同時期にはレーリッヒやイリオン、オッセンドフスキーや、更にはスヴェン・ヘディンといった探検家が続々と中央アジアへと向かい、様々な形でモンゴル、チベット等の民間伝承を伝えたため(1900-1920前後)、チベット文化圏に伝わる<地下王国>の伝説が、西洋においていよいよ広がりを見せることになる。
またほぼ同時期、グルンウィデルの友人でもあったロシアのブリヤート人僧侶であるアグヴァン・ドルジエフ(※)が、当時英国と中国の圧力を受けて危機にあったチベットを救う為、ロシアに保護を求めるよう、ダライ・ラマ13世へと働きかけたが、その試みは失敗に終わった。しかしロシアにはカラチャクラ寺院なるものが開設(1913)され、ロマノフ王朝こそがシャンバラの末裔に当たり、ニコライ2世はツォンカパ(チベット仏教ゲルク派の開祖)の転生者であるといった主張がなされた。
※ブリヤート人とは、ロシア中部のモンゴル系民族。ドルジエフは、ラサでチベット仏教を学び、ダライ・ラマ13世の相談役も務めた人物である。しかし記録が余り残されておらず、その正体は謎に包まれているため、一説にはこの人物こそが、同時期、ロシアから中央アジアを旅していたかのゲオルギー・イヴァノヴィッチ・グルジェフであるという推測も為されたが、「グルジェフ伝―神話の解剖」によれば、それはおそらく”あり得そうもない”という(グルジェフとシャンバラについては後述)。
この事件は地味ながらも、シャンバラ伝説に関してかくもロシア人が盛んに登場する理由を説明するものではある。即ち、一つには当時中国(清朝※)、英国の圧力を受けたチベットがロシアに活路を求めていたという政治的事情があり、またロシアもその頃はロマノフ王朝末期という動乱期を迎え、神秘主義が流行していたことは、シャンバラ伝説が短期間で一気に伝播した背景として重要な事実であると思われる(【付記3】参照、ついでに言えば怪僧ラスプーチンが宮廷入りしたのもこの時期)。
また同じ時期に西洋、ロシアの探検家らが盛んにチベット(アジア)へ向かった背景としては、無論、その後の第一次世界大戦(1914)へと連なる帝国主義の影があり(即ち各国の政治家は植民地探しの為に、それらのアジア探検者を奨励した)、更には、ロマノフ王朝の崩壊(1917)に前後して、ブラヴァツキー夫人やレーリッヒ、オッセンドフスキーらといったロシアにおけるシャンバラ伝説の立役者らが、こぞってニューヨークやパリへとその拠点を移したことも見逃せない。
※中国は18世紀以降、チベットの宗主国権を主張した。またこの当時はロシア(ロマノフ王朝、1917年崩壊)に接近したダライ・ラマ13世と、それに反して中国(清朝、1912年崩壊)に接近したパンチェン・ラマ9世(1925年中国に亡命、そのまま没する)の政治的対立も激化し、チベットは内外に大きな問題を抱えることになった。結局両者は離れたまま没し、その問題は最近のパンチェン・ラマの二重擁立(一方はチベット側、一方は中国側)といったような事件へと繋がって、現在にまで至る。
※またチェンバラがいつしかシャンバラ(Shambhala)へと統一されたのは、元々はニコライ・レーリッヒの息子、ゲオルゲ・レーリッヒの手によると言われている。ゲオルゲは父ニコライのアジア探索記を英語で編纂するに当たり、まず先のイエズス会士の書簡から引用し、その際に発音を元にXEMに当たる部分を、SHAMへと統一したことが始まりであるという。
更にその後も、西洋世界ではしばし「シャンバラ」の表記を巡って「Shambhala」か「Shambala」かで割れたが、チベットラマ僧として初めてオクスフォード大学に学んだチョギャム・トゥルンパ・リンポチェが、その著書「Shambhala: The Way of the Sacred Warrior」において英語表記として「Shambhala」の綴りを採用したことで、「Shambhala」が事実上の正式名称になったと言われている。
ちなみに現在でも手に入る同書(邦題:シャンバラ―勇者の道)は、「Warrior(戦士)」などと題打たれているものの、その中身は修行の為の本である。しかしやはり、これは後世に誤読され、”シャンバラに待機していつか世界を戦乱から救う戦士たち”といったような意味でしばしば使われることになった(後述【付記2】参照。また邦題における”勇者”という訳は、もちろん字義通りには正確ではなく、しかし誤解を避けるために訳者が選んだ苦肉の策であることが伺える)。
現在、特に西洋においてはおそらく「シャンバラ」よりも一般化している「シャングリラ」という言葉の直接の起源は、元々中国の東晋時代、詩人の陶淵明が「桃花源記」に記した「桃源郷」と言う言葉をサンスクリット語にしたものであるという。また「桃源郷」という言葉の起源そのものは更に古く、その源泉は西王母伝説(※)へと繋がると言われている。
※西王母とは殷時代の甲骨文字にさえ描かれる女仙の名。仙界である崑崙山に住むという。その起源は定かではないものの、中華オカルトの原典とも言える「山海経」等にも描かれている。後にも西周の穆王が尋ねたとか、漢の武帝時代、西王母の桃園に三千年に一度咲くという「桃花」(仙桃七顆)を武帝に捧げるといった形で様々な逸話に登場する。
シャングリラの名が西洋に広がる直接的な契機となったのは、1933年に発表された小説「失はれた地平線(ジェームズ・ヒルトン)」に描かれたことによる。物語では、ヒマラヤ周辺で飛行機事故にあった主人公らがたどり着く理想郷の名として描かれているものの、ヒルトンがその描写においてモデルとしたのはチベット、ヒマラヤではなく、主に中国・パキスタン国境付近のカラコルム、フンザ地域周辺だと言われている。
また現在では、雲南省の省都、昆明から西に数百キロの地点に、実際に「シャングリラ」という名の街が存在している(※)。これは漢字においては、「香格里拉」と表され、即ち、もともと漢字であった言葉(「桃源郷」)が、一度サンスクリット語に翻訳され、それがヒルトンの小説を経て、再びシャングリラという音から漢字に当て字された形になる。しかしいずれにせよ、それは単に観光地としての活性化を狙った改名であり、確かに牧歌的で風光明媚な街ではあるものの、特に根拠のない、言わば自称的宣言に過ぎないことは言うまでもない。
※かつての中甸。2002年に正式改名。幾つかの市町村でシャングリラへの改名権を巡ってもめ、最終的に中甸がシャングリラの名を”獲得”した。
「アガルタ」という言葉(※1)はモンゴル起源という説が有力であるものの、チベット文化圏全土に広く分布していると言われる。その由来は古くからの民間伝承である古代に大洪水で沈んだ”地下王国”の名にあるという(その位置は現在のアルタイ山周辺であると言われる。またしばし大洪水→沈没といった逸話から、アトランティスやムー大陸伝説にも結びつけられる)。
モンゴルではもともとシャーマニズム的な信仰が行われていたが、16~17世紀にチベット仏教が導入されると、清朝の奨励策も重なって、チベット仏教が普及した。その為、アガルタ伝説はいつしかカラチャクラを源流にもつシャンバラ伝説と合流したとみられ、現在、両者は不可分な関係であるとも言える(※2)。
※1.隠された、秘密の、といった意味。オッセンドフスキーの影響(後述)か、西洋ではもっぱらアガルティー(Agharti)綴られる事の方が多い。また上述のシャンバラのように”公式記述”が存在しないためか、時にAgartha、Agardhiというようにその表記にはぶれがある。
※2.特にレーリッヒもその著書で、シャンバラよりもむしろアガルタに再三触れており、それらを特に分けて考えていたわけではないようでもある。
またこれらの事情から、現代に伝わるアガルタの名はシャンバラの別称としてみても強ち間違いではないと言うことができる。特にシャンバラが”地下”にあるとする俗説を決定付けたのは、このアガルタ伝説との融合によるところが大きいと思われる(※3)。
※3.シャンバラの原点であるカラチャクラには、元々シャンバラが地下であるとか、天空であるというような具体的な場所を示す言葉は何一つ記されていない。
アガルタが西洋に初めて紹介されたのは、フランス人の作家ジョセフ・アレクサンドレ・サンイブス・ド・アルヴィドレが、その著書「Mission de l'Inde en Europe (1886)」に描いたことによる。サン・イブスはその中で、アガルティをインド北部の地下に眠る王国の名として描き、唯物主義の世界が臨界に達したとき、そこで起こる争いからアガルタが世界を救うといった物語をつづっているが、これは当時広まりつつあったシャンバラ伝説を色濃く反映したものであった。
しかしその名が西洋に広く知られる決定的な契機となったのは、イリオンやレーリッヒに先駆けてアジアを旅した、ロシア育ちのポーランド人科学者フェルディナンド・オッセンドフスキーのモンゴル探検記「Beasts, Men and Gods(1922)」に描かれたことよる。オッセンドフスキーはその中で、モンゴルの老人から聞いた話として、”地下王国アガルティ(Kingdom of Agharti)”を紹介している。また老人が民間伝承として語った地下王国の内容は、上記二つの”理想郷伝説”と比べ、かなり具体的かつ途方もないなものであった(※)。
※例えば、地下王国をつなぐ通路はアメリカからイースター島、チベットのポタラ宮殿まで通じ、ほとんど世界を網羅しているという。またこの説は後の地球空洞説などによっても補足された。
しかしまた、探検家のスヴェン・ヘディンは、後にオッセンドフスキーの描いた話は先のサン・イブスの小説からコンセプトを借用し、誇張させただけだとして批判しており(「Ossendowski and the Truth(1925)」)、それが事実であるとするならば、現在知られるアガルタ伝説もまた、シャンバラ伝説との融合によって生まれたものとして考えることができる。つまり両者は、互いにそれぞれのコンセプトを借用した形で、今に伝えられているという訳である。
オルモルンリンとは、ボン教における曼荼羅的な図(九つの卍)で示される世界観で、開祖トンパ・シェンラプが生まれた伝説の地とされる(一説にはチベット西部の聖地カイラス山を指すという)。ボン教はもともとチベットに仏教が伝播する以前から存在し、その起源はチベットの古代ム族にあると言われるが、諸説がある(イラン起源など)。
また9世紀頃、チベットに仏教が伝播して広まりを見せると、ボン教は急に理論整備が行われるようになり、特に仏教に反駁するように、対立的な態度を取るようになった事が指摘されている(※)。そのためか、現存するオルモランリンを示した経典などにおいては、しばし仏教概念であるシャンバラは、オルモルンリンを構成する世界のうちの一つに過ぎない(即ちオルモルンリンの下位世界)ことなどが説明されている(またこの事から、しばしボン教の経典に「実在の土地としてシャンバラの名が記されていた」、といった誤読が発生しがちである)。
※例えば、チベット仏教においては左を不浄とし、巡礼は常に右回りで行われるが、ボン教は逆の左回りで行う。
近年の研究によって、紀元前500年頃のチベットには「シャンシュン」なる国が存在した事が明らかになりつつあり(1985年に発掘)、その響きから一説にはそれがシャンバラのルーツとなったのではといった推測も為された。しかし、それはツァンポ方面ではなく、チベット仏教、ヒンドゥー教の聖地カイラス山などが位置するチベット西部に実在した王国であった事が調査によってほぼ明らかになっている。しかしまた、オルモルンリンの伝説を持つボン教は、このシャンシュンに始まったという説が有力視されている為、決して無関係というわけでもないようである。
今回の視察で参考としたイリオン本は一部においてヒトラー(或いはヒムラー)にも影響を与えたとされており、事実ドイツ人であるイリオンとナチスが接触した節はある。しかし実際には、もしナチスがシャンバラについて知っていたとしたら、それはヒトラーが懇意にし、かつ同時期にチベット周辺を探検したスウェーデンの著名な探検家スヴェン・ヘディンの記録からであると考える方が自然であると思われる(※)。
※ヘディンは1899年頃から3年程かけてチベットなどを探検している。また偶然か、ヘディンもまた「Tsangpo Lamas Wallfahrt (ツァンポ・ラマの巡礼行,1922))」という本を著している。ヘディンの探検家としての功績は多大なものであったにも関わらず、ヒトラーと接触したという理由から、その存在は戦後、黙殺されている(実際には、探検からの帰還途中にドイツに立ち寄ったヘディンを、ヒトラーがプロパガンダ目的で一方的に歓迎したと言われる)。
更に第二次世界大戦末期、苦境に立たされたヒトラーが形勢逆転を狙ってシャンバラとそこに存在する「シャンバラの超兵器、或いは戦士達=ラスト・バタリオン」を求めてチベットに捜索隊(ア-ネンエルベ)を送った、といった説や、あるいは陥落後のベルリン司令本部からナチの制服を着たチベット人の遺体が幾つも発見されたといった説も存在する。
しかしこれについては、周知の通りベルリン陥落時の事実関係が錯綜しているため定かではないものの、あえてノビー的、あるいは勝ち組的に考えるならば、ここは<NoではなくYes,but>と答えるべきところであると思われる。即ち、もし陥落後の司令本部からナチの制服を着たアジア人が発見されたのが真実であるとするならば、それはカルムイク人に違いないというのが、現在のナチス=チベット・コネクション否定者側の定説となっている(※)。その背景として、ナチスはロシア侵攻後、反ロシア・プロパガンダの為、ゲッペルスが幾人かのカルムイク人をナチ本部に招聘したと言われている。またヒトラーがチベットに興味を示していたというのも、上述の通り、英国の圧力を受けたチベットが、ドイツの敵国ロシアと接触を持とうとしていたことによるという。
※カルムイクはロシア南部に位置するモンゴル人のラマ教国。ヨーロッパ唯一の仏教国とも呼ばれる。
更に派生して、しばしナチスのシンボルである逆卍(右万字、サウワスティカ、以下鉤十字)と、仏教、ヒンドゥー教等のシンボルとして用いられる卍(左万字、スワスティカ)の共通性も指摘されるものの、鉤十字の採用を巡っては単にヒトラーは一般のナチス党員が挙げたものの中からたまたま”採用”したに過ぎないこと、更に実際には洋の東西を問わずもっぱら太陽のシンボルなどとして遙か古代から世界中に分布しているといった事実から、現在では鉤十字ヒトラー考案説(或いはアーリア人起源説)はほぼ完全に否定されている(その顛末は「絶対の宣伝4 扇動の方法」草森紳一著に詳しい)。
また付言するならば、これは前回の南米視察とも関連し、このヒトラーの発したらしい「ラスト・バタリオン(最後の部隊)」という意味深な言葉は、第二次世界大戦以降のオカルト界にとって、節々で転用される重要なタームとなっている。例えばチベットにおいては、先のリンポチェの本に描かれる”シャンバラの聖なる戦士達”という言葉と結びつけられ、"シャンバラに眠る超兵器"といった<キバヤシ的洞察力>を誘発し、さらに南米においては、ヒトラー南米亡命説と結びつけられ、”エスタンジアのUFO開発説”といった<ノビー的想像力>を刺激する結果を生んだ。
今日、ニコライ・レーリッヒの言はほとんど全てのシャンバラ関係本において必ずと言って良いほど引用され、その存在はあたかも生涯をかけて”実在の”シャンバラを探し求めたオカルト探検家のように伝えられている。しかし、改めてレーリッヒの著作を幾つか紐解いてみると、果たしてレーリッヒがシャンバラに対してどういった考え方を持っていたのか、非常に複雑である事に気づく。おそらくその背景としては、レーリッヒがある時は画家、ある時は民俗学者、または探検家、更には神秘主義者、環境保護活動家などと様々な肩書きで呼ばれるように(※)、その多面性がそのまま著書にも現れている事が挙げられる。即ち、同時期に起きた出来事がある著書には書かれ、別の著書には書かれていないという事態さえしばし見られる為、著書によって内容、主張がしばし異なっているように見えるということである(或いはもちろん、意識的に書き分けていた可能性もあるが、いずれにせよ、どれか一冊を読んだだけでは彼の一面しか見えてこないことは確かである)。
※探検家としての功績は言うまでもなく、画家としても旺盛であり、ニューヨークには現在でもレーリッヒ美術館がある。また家族を挙げて神智学協会会員だったことでも有名で、妻エレナと共にアグニ・ヨガと呼ばれる協会を設立した。またインドに考古学研究所を設立し、中央アジア諸国の民俗文化保存等に貢献したことから、1929年にはノーベル平和賞にもノミネートされている。
例えば、上述の「Altai-Himalaya」を読む限りにおいては、レーリッヒは、シャンバラがモンゴル、チベットにおける民間伝承、あるいは宗教上の説話として描かれる概念上の世界であることを民俗学者的視点で、明瞭かつ淡々と記述している。しかしその一方、「Heart of Asia」などを見ると、上空を急ターンしながら飛行する銀色の円盤を目撃し、それがシャンバラの乗り物だったのでは、といった旨の話を真顔で記し、他にもシャンバラの実在を確信しているかのような神秘主義者的(或いは芸術家的)記述を残している(ちなみにこれは20世紀初頭における最初期のUFO目撃談としてもしばし引用される)。しかしまた一方で「Shambhala : In Search of New Era(邦題:シャンバラの道 こころの科学)」などを見ると、やはりシャンバラは「実在」ではなく「概念」上の存在であることを、自らとラマ僧との激しいやり取りを通じる形で説明しているようにも思えるのである(※)。
※同書では、ラマ僧に対してシャンバラの実在を熱く問うレーリッヒが、それがむしろ観念論的な意味における実在であることを諭されるといった、禅問答的やりとりが展開されている。
このように、レーリッヒの記述は、その奔放な活動を反映するように、まるで縦横無尽であり、つかみ所がない。その為、一体レーリッヒがどこまでシャンバラの実在を確信していたのかは、いささか謎ではある。また注意すべき点として、今日、「実在」としてのシャンバラに関してレーリッヒの言が引用される場合、特にその妻エレナの記述(※)、活動によるものも一緒くたにされがちな傾向があり、更に誤読を生じているようにも思える。例えば少なくとも神秘主義者的傾向という点においては、妻エレナはニコライを上回っていたようで、実際、エレナは、ブラヴァツキー夫人の「秘密教理(シークレット・ドクトリン)」の翻訳も手がけている。
しかしいずれにせよ、現代における(特に西洋、ロシアにおいて)シャンバラ伝説の伝播に決定的な役割を果たしたのは、レーリッヒ一家の”功績”と、彼らに前後してインド周辺に滞在し、ヒンドゥー教、チベット仏教を”会得(=翻訳)”し、それらを西洋のオカルトと接続して神智学協会を開いた(1875)ブラヴァツキー夫人その人であることはほぼ疑いようがない。ブラヴァツキー夫人自身はそれがチベット奥地のマハトマから送られてくる知識に基づくとし、必ずしもそれがシャンバラからのものであるとは明言していない。しかしそれは、モーリス・ドリール(※1)、エレナ・レーリッヒらといった強力な取り巻きによって補完(Letters of Helena Roerich: 1929-1938)され、事実上、ブラヴァツキー夫人が神智学教義全体(※2)を通じて「シャンバラ」を世に喚起させる存在であり続けたことは、否定しがたい事実であると思われる。
※1.地球空洞説を支持したモーリス・ドリールもまた、その著書「秘教真義―ヨガの大殿堂シャンバラと大白色聖同胞団の解明」の中で、シャンバラへの入り口について明確に記している。しかしその内容は一見して<キバヤシ的>である事が余りにも明白であったため、立ち読みに留め、今回は参考としなかった。
※2.事実、それまで西洋にほとんど知られていなかったチベット仏教の概念、教義等を多分に含んだブラヴァツキーの思想は西洋においてまず画期的な「エソテリック・ブッディズム(秘教的仏教)」として認識された(もっとも本人はそれを冒頭で否定こそしてはいるが)。また付言するならば、同時代にはやはり"神秘主義者"として知られ、「シャンバラ」についてしばしその言説を援用されがちなG.I.グルジェフがいる(19世紀後半、チベット周辺を放浪したと言われる)。しかしグルジェフに関して言えば、その主著「ベルゼバブの孫への話 (1950)」にも明らかな通り、そうした神秘主義的思考や同時代の神智学、オカルト等に対して徹底して批判的であることから、ブラヴァツキー夫人らと同列視することは難しいと思われる。
※尚、現段階でのシャンバラ以外の視察についてはアジア大陸・ヒマラヤ観光旅行記(視察中間報告)をご覧ください。
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