【BBC】かつて脳卒中に倒れたトミー・マクヒュー(54)は今では毎日キャンバスに絵を描き、彫刻を彫り、そして詩を書いて過ごしている。彼の芸術的才能はまるで、脳卒中によって一気に解き放たれたかのようである。こうした脳の損傷による突発的な芸術的才能の発露という現象は、これまで世界でも2件しか報告されていない非常に稀なものである。トミーは数年前のある日、脳卒中(くも膜下出血)に倒れた。そして病院に運ばれて手当を受けて退院した後、それまで興味もなかった芸術への情熱が沸々と溢れ出し、彼を一気にアーティストへと変えてしまったというのだ。(写真はトミーの作品)
入院から10日後、トミーは病院を退院して自宅に戻ったが、そこでトミーは自分を迎えた妻の事すら誰のなのか認識することが出来なかった。
「みんながあの女性が私の妻だって言ったんです。手術後数週間はうまく物事を認識出来ない事があるとは言われてたんですが、とにかく私は自分自身が誰なのか、そもそも一体何なのか、それすらも分からなかったですね。自分がお腹がすいてることさえ分からなかった。それから言葉は急に激しい韻文のようになってしまったんです。そう、全てが韻文でしたね。」
退院後、トミーの面倒を見続けた彼の妻 - その女性は今は既に離婚している - は彼のしゃべることが理解できなかった為、しゃべる代わりに彼にペンと紙を与え、その言葉を理解しようとした。
「それから、私は自分が経験したことを、韻文にしてもの凄い勢いで書き始めました。そのときの私は、、まるで拳銃の中の弾丸のような気分でしたね。」
そしてそれからというもの、トミーの人生はそれまで興味も経験もなかった創作活動へと一気に向かい始めた。彼は鉛筆で何百というスケッチを描き、やがて家の壁に大きな水彩画を描き、それでも飽き足らず、彫刻さえも作り始めたのだ。
「今では毎日絵を描く事に10時間以上費やしています。逆に何を描こうか考えるのはたった10秒程ですね。」トミーはそうした思考はまるで分裂した何かを結びつけるような感覚だと話している。「それはちょうどジグソーパズルのような感覚です。まず私はその一部分だけを得て、それから他のパーツを次々と当てはめていきながら、再びまたそれを粉々にするような感覚、、、あるいは崖っぷちで壊れたレンガの上に立っているような感覚でしょうか。」
またトミー氏によれば、そうした感覚は彼のクリエイティビティそのものであると語る。
「それはエトナ火山の爆発であり、まるで美しい知性の泡のようなものです。それは私の周りを絶えずフワフワと飛んでいるんです。そして、私はそれが消えてしまう前にその中の一つを掴み取って、それを何とか忘れないようにするわけです。私はその中に飛び込み、何かを掴んで、粘土で人形を作り始めます。次には石から何かを作り、あるいは絵を描き、ふと座り込んでは詩を書き、あるいは鳥の羽から蝶さえ作るんです。」
またトミーは脳障害の後、彼の人格までもが完全に変化したと語っている。
脳障害に陥る前、トミーは自らの人生をして本当にひどい人生であった、と振り返っている。トミーはそれまで長期的なヘロイン中毒者だったのだ。しかし、脳障害から生還した彼は自らの女性的な感性に気づき、今では幸せな日々であると語る。
「自分が自分でいられることが何よりの幸せです。今現在の自分、今のトミーでいられる事が幸せなんです。皆が知っている以前の私ではありません。自分の脳に一体何が起こったのかは分かりません。ただ、ひとつ言えるのは、それがとてつもなく素晴らしいものだったということです。」
こうしたトミーの症状に関し、英ロンドン大学の神経生理学者マーク・リスゴー医師は以下のように語っている。
「詳しい原因はまだ分かりませんが、あるいはトミー(写真)を襲った脳障害が、彼の脳神経経路の脱抑制を引き起こし、それが彼のクリエイティビティを目覚めさせたのかもしれません。それが何であれ、彼の脳に眠っていた芸術的才能、それを抑止していた何かが脳障害によって開放され、一気に溢れでたんでしょう。こうした脳における芸術的才能の位置づけというのは我々自身まだ手探りの最中です。逆にこうしたトミーのような稀なケースから何か手がかりを掴むことも期待できるかも知れません。」
リスゴー医師は今後、他の心理学者らと共同して、このトミー・マクヒューのケースを詳しく調査し、論文として発表する予定である。
「今我々はトミーに対して様々な脳神経テストを行っているところです。そこから彼の脳内で一体何が起こったのか、手がかりを掴むことも出来るかもしれないからですね。」
共同研究を行う心理学者トム・ポラック博士は語った。
現在、トミーが描き上げた作品(写真)は地元の図書館や様々なギャラリーで展示されている。また今後は別名を名乗り、アーティストとして本格的に活動していくつもりであるという。
国際的アーティストのマリオン・カルムスさんはそうしたトミーの急成長を見守り続け、その驚きを語っている。
「彼はそれこそ何からでも作品を作り上げてしまうのよ。例えば二人で座って、おしゃべりしてるとするでしょ、彼はその間にも紙コップから作品を作り上げてしまうの。でも、かといって彼がこの短期間で技術的にも急成長したってわけじゃないわ。彼はダヴィンチやそうした人達とは違う。彼は今、ちょうど活火山みたいなものね。ものすごく情熱に溢れてて、次から次ぎへと溢れるように作品を作ってるわ。こういう経験はアーティストなら誰でも一度は経験することだと思うの。」
トミーは今後、ロンドンのダナ科学博物館で行われる創造力に関するシンポジウムに出席し、彼のクリエイティビティの発露についてリスゴー医師らと対談する予定であるとのこと。
【参考1】右脳左脳の俗説 | ART & DISABILITIES 障害と芸術
【参考2】脳は絵をどのように理解するか—絵画の認知科学 | 美を脳から考える—芸術への生物学的探検 | 理性と美的快楽—感性のニューロサイエンス
3. NONAME 2004/06/27 13:36:17 [RES] [↑]
2げと
単に頭が逝っちゃったんじゃないの?
一番上のアシュラ男爵みたいな自画像を見て思うのは、
人間が半分死ぬことで、
モノ=自然=原初的同一に片足を踏み入れてるってことかな?
まぁ、たんなる直感、邪推だけど。
>>18
驚異の小宇宙 人体Ⅱ brain&mindのことだね。
この内容と同じ内容が以前NHKのドキュメント地球時間で
やってたが↓
[ >> LINK ]
それによるとサヴァン患者と芸術に目覚めた人脳で
共通した特徴があった。それは脳の側頭葉の後ろ全部を
損傷していた。ちなみに側頭葉は分析と言語に関係する部位
らしいが。
まぁ、この芸術に目覚めた人っていうのは痴呆により
芸術に目覚めたみたいだけど。
それに一人だけというわけではなかったきがする。
一番下の絵は普通にすごいと思った。
ほんとはこういうのがやりたくて仕方なかったけど、
きっかけがなかったので、脳卒中を利用したのでは?
などとつまらない勘ぐりを入れてみる。
興味深いのはいままでに興味のなかったことに興味を持ったという、嗜好の変化が脳卒中を境にあること。
この絵が芸術かどうかは↑で何人かが『恐い』と書き込んだ事から、絵による感情への訴えがあるのでアートと呼んで間違いない。
センスが良し悪し、上手い下手は別にして。
>>17
デッサン力だけが画家のバロメータではない。
芸術の一要素だけですべてを判断できる単純さに乾杯。
絵なんて受け手によって評価は千差万別なんだから、
誰かが芸術と思ったら芸術なんじゃない?
ちなみに俺の感想としては「なんだこの薄汚い絵は?」だ。
一円の価値すら感じんし、事故って職を失った人間とかの
パフォーマンスなんじゃないかと邪推してみる。
適当に絵を書けば芸術家に、街頭で座り込んで空き缶を置けば乞食に。
脳卒中によりなにかを失ったんだろうね。
これが突然モネやブリューゲルみたいな画を描きだした、
ってのなら、
眠っていた才能が覚醒した、
なんて思えるんだけど。
芸術は欠落により産まれるなんてよく言ったものだ。
でもあんまり欲しくないなぁー、
この三作に限っては。
自称芸術家が「感性の解放だ」とラリるのは珍しくもないけど、この人物の場合これを天然でやり遂げたのであろうか。
「2001年宇宙の旅」でもスリットスキャンのシーンは美術担当がLSDでラリパッパという都市伝説があるけどなー。ちなみに映画館の最前列に陣取ってアシッドペーパーなど嗜むと感動も一入という話。
個人的には怪奇小説のカバー絵という印象がありますね。画家にはなれるだろうけどそれで成功するかとなるとちょっと疑問。
>>19
よくタイトルまで憶えてはりますね。「ドキュメント地球時間」も「BSプライムタイム」も割と見ているほうだと思ってましたが、タイトルまでは即答できませんです。
ピカソの抽象画とかもそうだけど、多くの人間が
見て理解出来ない(良いと思わない)ものがどうして
芸術たりえるんだろう?
「良い」と思う人が一番多い作品こそが真の
芸術ではないのかなーと昔から思うのですが。
教えてえらい人。
>34
偉くはないけど、
個人的に、
ピカソは凄い気がする。
上手く説明できないんだけど、
それだから尚更に凄い気がする。
でも、
これには感銘を受けない。
って、
芸術に対しては、
個人的な感応のみで意思表示するしかないけど。
>>34
奇天烈なモノは何気に評価が高かったりしますね。あえて世界三大珍味が高価なのも理解できたり…。結局は好奇心でしょうか。
芸術の根底は「創造」であり、「全ての人が理解できないモノ」=「初めてこの世に生み出されたモノ」というわけで、芸術として評価される…とかなんとか…。
ちなみに無意味なモノではないです。念のため。
なんだかこれを言うのは二度目の気もするが
一部に何かが欠落した者は、他の一部に欠落した分が上乗せされる。
その結果、素晴らしい芸術が誕生するのだ。
でもなんかヤラセくさい。
>一部に何かが欠落した者は、他の一部に欠落した分が上乗せされる。
>その結果、素晴らしい芸術が誕生するのだ。
持たざるものの嫉妬が生んだ幻想だな。
>39
欠落により産まれるのは創作に対する欲求な気がする。
そんで、
真摯に求めるものがやはり強いという気がする。
でも、
上乗せされる、
てのは好かんな、
個人的に。
やっぱキカイダーを思い出すよな。あのデザインもグロテスク。
>「良い」と思う人が一番多い作品こそが真の芸術ではないのかなーと昔から思うのですが。
ひとつの基準だとは思うけど「良い」と思う人の数なんてその時々で全然違いますからね。
その考え方で言うと例えばゴッホの絵、彼が存命中の時代では真の芸術ではなかったことになってしまう。
>>41
芸術的価値≠金銭的価値でしょう。
芸術的価値というのは、その技法など、何か一つでも学ぶことが出来ることが出来るか否かという点だと自負しております。
もしくは感銘やらの魅力についてでしょうか。
ただ、金を持て余した富豪たちが単なるコレクションとして競り合ったが故にそのような誤解が広がったとは思いますが。
とはいえ絶対的価値などは当然存在するわけはなく、所詮は相対的にしか評価することが出来ないところに依存するならば、神が評価しない限り芸術=値段でしょうね。
無論、芸術を大いに理解している方にとっては歯がゆき事ですが。
好奇心も使いようですね…。
>>34
究極的には作者と受け手との一対一のコミュニケーション。
つまり貴方がどう感じるか。何も分からなければそれまで。
つまり善し悪しじゃなくて、その残酷さは言葉の壁に似ている。
絵を選んだ人の意図かもしれないけど、二重の人格とか
人格の変容みたいなものがテーマに思えた。
脳卒中でどこかが実際に頭のどこかがトンで化学反応的に
絵を書きたくなったのかそれとも臨死して(とは書いてないけど)
その経験が後悔のない人生に向かわせたのか。
アーティスト的にはむしろ元ヘロ中ってところがおいしいかな(笑)
非常に大雑把に言うと、脳卒中になると左右の半身麻痺になる事が多い。一番上の作品は病体験(麻痺症状)をそのまま描いたものではないかと推察する。
「世界に一つだけの花」の作者は
過去に薬物中毒の幻覚で見た
自分の周りにたくさんの花々が咲き乱れる様を
思い出して「世界に一つだけの花」を作ったらしい
>>38
教えて偉い人。
芸術ってなんですか。何処がどうだと良いんですか?
つまらない絵ってどういうのですか。
身近な人が絵描きで、私は理解してあげたいけど理解できなくて基地外になりそうです・・・・(--;)
ベストセラーとなった小説が一番優れているわけでもなく
観客動員数が多い映画が一番なわけでもなく。
芸術作品も(この場合は平面作品?)
多くの人にわかりやすく受け入れ易いものと
場数を踏み、自分の感じる心に素直なった人に感動を与えるものが
あると思います。
そのことと、値段はまた別。
いろいろと判りにくい、胡散臭いことが重なって
作品を素直に見る人が減ってしまっているかな。
残念です。
>>48
その人の絵を見て今なんとも思わなければ
今はあきらめましょう。
音楽でも、文学でも、なんでもいいです。
服や車や建物のデザインでも、いいです。
何か、ほれた品を、いろいろと追いかけてみてください。
自分の頭と体と金を使って、言葉で考えず自分で方向を決めてください。広げてください。誰も教えることはできません。
ふとしたきっかけで、ほかの芸術分野も分かってきます。
いろいろとあさっている過程で、ちらちらその人の絵を
見ていれば、いつか何か分かるかもしれません。
例えばインテリアに凝っていて、
さあ、次は何を飾ろうか?という時に、
目の前に値札や説明書のない様々な絵画があり、
自由に選ぶことができた場合、
人はどのようにして絵画を選ぶだろうか?
迷いに迷った挙句、選ばないことも出来る。それこそが芸術の価値。
勿論、それらの売買においては金銭的価値が優先されるが、
自分の好きな絵画しか画廊に並べないというディーラーも少なからずいる。
芸術の価値について具体的な指針を求めるなら、下記のリンク上から好みと思えるものを選んでみる。
そして価格を参照して欲しい。
[ >> LINK ]
・・・宣伝しているわけではないので、どうかあしからず。
レスありがとうございます。
その人の絵は、良い悪いは別として、綺麗だと思います。
ただ私の考える「絵」としては大きすぎると思います。
わざわざ人が描くようなものでもないと思います。
自然の風景で良く見るような感じのものです。
山肌とか、そんな感じ。
絵は好きなので好きな絵描きさんはいます、クリムトとか、ミュシャとか、ロートレックとか、好きです。
でもその人(彼氏なのですが)の話を聞いていると、今まで自分の好き嫌いで絵を選んで人のことはあまり気にしていなかったのですが、好き嫌いで選ぶこと事態「素人的で。つまらないこと。専門家はどうだのこうだの」といわれてしまいどうしていいのか分かりません。
芸術なんてのは作り手の自己満足で成り立つ。
作り手が芸術と言い張ればそれは芸術。
無理に他者が作り手の自己満足を理解する必要はないってこと。
それにしても、一番上の絵はすごく好き。欲しいくらい。
感受性の統一などは言語道断ですから、当然価値観も人それぞれです。
ですから一般的な芸術品の価値といったものの場合、その芸術に魅力等を感じ取った人たちが勝手に付けた値段の事なのでしょう。
話は変わりますが、何か悲しいことがあったときに、
「どれくらい悲しい?」
と言われた場合、比較や比喩を使わずに表現することはできるでしょうか?
幾つかの芸術品はそれらの感情等を表現するために用いられてますが、ではそれを評価するにはどうすればよいでしょうか?
もちろん、貴方にどれほど作者の気持ちが伝わったかどうかなのですが、さて果たして貴方はその程度をどのように表すことができるでしょうか。
無論それを更に象徴的なモノで表す事も出来ますが、それではいつまでも終わることがありません。感情を表す基準などありませんからね。
ですから社会的に最も分かりやすい金銭基準を用いて表現してしまうことが多いのでしょう。
更に、信頼性のある情報を統計的にまとめてしまうため、万人に通用する価値ではなくなってしまうわけなのですね。
芸術の良さに限らず、あらゆるモノの価値なんて人それぞれですから、そんなに絶対的な基準を求めずとも良いのではないでしょうか?
更に言うのならば、芸術に携わる人が自らの感受性に嘘をつくのならば、誰もその作品から何一つとして感じ取れるものはないはずです。
大事なのは自分の感受性に素直であることなのですから…。
※何処より抜粋(ぉ
「貴方が好きなあの人も、私はどうだか知れないでしょ?
あの人がどれだけ素敵かじゃなくて、貴方がどれだけ好きなのか、なのよ。」
全てを物語る言葉ですね…^^;
>「貴方が好きなあの人も、私はどうだか知れないでしょ?
あの人がどれだけ素敵かじゃなくて、貴方がどれだけ好きなのか、なのよ。」
パンチの有る言葉ですね。
でも私は彼氏の好きなもの(というかどんな価値観なのか)が何なのか知りたかったりしますw
今一番分からないのは、彼が言っている「世界のレベルの作家」、と「素人お絵かきさん」の違い。身近なところで言うと平山郁夫、ルノワール、ミュシャなどは後者。
クリスト、サイトンブリ、川俣、セザンヌなどは前者。だそうなんですが・・・。
これって好みの問題じゃないかといったら怒られました・・・「一緒にするなんて失礼極まりない、これだから素人は」って。
どうなんですかね?
美術誌詳しい人よろしく。
私は自分の絵を売った経験があります。
自分がひとりで創りあげたものを
欲しいと思って財布をあけ、買ってくれる人がいる。
部屋に飾って、いつも見ていたいと思ってくれて
その為に、表示されている値段を払おうと決心してくれる。
それは、とても嬉しいものです。
作品を売る原点はそんなものではないでしょうか。
それが多くの人が欲しい作品に高値が付き
投資の対象になったりもして
とんでもない値段がついたりするわけです。
でも、やはり、高値が付くものは
多くの人が「いいなー」と思ったもののわけで
力のある作品であることは間違いないと私は思います。
>>56
んん、なんとなくはわかる。個人的に映画にしても音楽にしても、なにかと作品に点数を付けるのはどうかと思うな。100点満点中75点!とか、「はぁ?」って思ってしまう。もし自分だったら、必死こいて創った作品に点数とかで価値決められたくないし。
>48
思うに芸術は見たものの心を動かす物だと思う
萌えとかああいうのはマタ別だと思うけど。
先行した知識無く感動を与えると言うような物でしょうか
自然を書くならその自然の心を描けと良く言われますが
私にはさっぱりです。小学生の絵も低学年の子の絵の方が面白いですね
高学年になってくるとどうしても小手先、左脳で書きたがるのが人間ですからね
>>58
そうすると、人気のイラストレーターがかなり力がある絵描きさん。(芸術家)ということになりませんか?
私も58さんと同じように考えていました。
でもそれをあまり突き詰めて考えると、非常に商業的で相手に合わせる(需要に対する供給をする)役割になってしまいそうですよね。
ここで、気になるのが、需要があるからそれが優れているのか?
需要が無いから、それは優れていないのか?
今有名な作家でも生きている間はまったく需要がなかった(評価されない、売れない)人は居ましたよね。
それが何故今売れるんでしょうね?
たまたまか、運命のあやか、それとも必然なのか。
そもそもイラストレーターと芸術家の線引きは何処にあるのか。
芸術性のあるものと世俗的なもの(それが対義語であるかどうか非常に疑問なのですが)の違いはなになのか。
絵描きの彼氏は売れている絵描きさんにでも「素人」という言葉を使います。
売れてない自分は「専門家」らしいのですが。
私には分からない世界。。。
個人的には2枚目が好きw
まあ…感性とか、モノに対する感受性ってのは、受け取る個人を取り巻く環境とか、時代背景とか、それまで生きて来た間に培われたものに近いのではないかと
ピカソの「ゲルニカ」なんて、時代背景的な物と相俟って芸術の域まで高められたんじゃないかなぁ?
ピカソがキュビズムに何を見出した(或いは見出そうとしたのか)は、彼ならぬ俺には到底判りませんが
浮世絵だって、流通(と云うのも変かも知れんが)当時は唯のチラシとかそう云ったモンだったらしいけど、今じゃもう、言わずもがなですしね
…所で、1枚目がサーモグラフィーの画像だと思った俺は馬鹿ですか?
58です。
基本は、注文を受けて制作するのがイラストレーター
自ら制作するのが作家であると思いますが
私はあまり差はないと思っています。
作家には
売りたいと思う人、有名になりたいと思う人
人になにか伝えたい人、人にいいなあと思って欲しい人
自分の内面、想いを表現したい人
いろいろだと思いますし
またひとりの人でも、いろいろな気持ちが揺れるでしょう。
どんな目的が正しいとも、正しくないとも
私は思っていません。
良い作品かどうかは、見た人が決めるもの、かな。
良い、優れたものって無理に言葉にすると
存在感、訴求力でしょうか、私にとっては。
で、有名な画家の作品や、高い作品って
そうゆうことが、あるレベル以上と思うわけです。
でも、まったく無名な人の作品でも
すごく心が動くことは、もちろんあります。
自分が、いい!と思う気持ちに自信がなくて
それでも作品を買いたい人は
高名な、とか賞を取ったとかで判断するんでしょうか、ね。
一応私、美大出たり絵で食ってたりする人間です。
で、「何が芸術で、何が芸術でないか」を説明するのって、不条理ギャグを知らない人に、そのどこが面白いのかを説明するくらい難しいので、ここでは書きません。(自分の日記とかでは書いてたりするけど)
さて、トピの主役のトミーさん。
脳障害が原因で芸術に目覚めたと言うより、病気で他にやることもないから絵を描き始めたのだと思います。
私だって、他にできることがないから絵を描いてるわけだし。
ついに芸術論にまで発展したのであった。
己が目で見て「良い」と思えば良いのです。それがなければその画に説得力が無いだけの話。理屈もいらない。好き嫌いで見て何が悪いか。「素人」「玄人」などと区別したがる時点でその御仁の負け。
ルーブルへの収蔵展示の一条件として「百年経っても評価が下がらないこと」がありますけど、印刷を前提として描かれたロートレックの絵は彼の存命中から展示されました。それほどまでに彼の作品はエポック足り得たのであり、また「街角のアート」としても広く支持を得たということ。
だもので「蔦谷喜一」氏などあるいはもっとも成功した日本画家の一人ではないかと(笑)。姉たちも熱心でしたよ
「きいちのぬりえ」。
もちろん受け手が学び考えることで作品への理解がさらに深まりもします。その作品の時代背景や作者のメッセージを知り作品へのアプローチがさらに多角化したりもするのですから。
他の記事とか読んでみると、もう24時間、制作漬けみたいね。
普通の人間の芸術活動と、同じレベルで論じても仕方ないような気がするな。
誰でも、あるいは一部の人間は素人でも、脳のリミッターが外された場合、専門家が注目するほどの芸術作品を作り出せる、のかもしれない。
でも奥さんと別れちゃって、社会的生活が出来無くなっちゃうのは、俺だったら嫌だな。
[ >> LINK ]
[ >> LINK ]
これは俗に言うウォークインっていう現象じゃないでしょうか?
今までの魂(ハイアーセルフ)がまったく別の魂と入れ替わると言う現象です。(以前の魂は体から完全に離れてしまうので憑依とは違います。)
一般人と芸術家の芸術に対する価値観は違う。
一般人は「いかに自分に快楽を与えてくれるか」。
芸術家は「いかに到達するのが困難な境地に辿り着くか」。
(現実にはこれらが色んな割合で絡み合っていくんだけど)
だから、芸術家にとって芸術の優劣ってのは、
個人の好みの問題というわけじゃないし、確かに存在する。
トミーさん、脳の損傷が直接の原因ではないと思うな。
死にそうな体験をしたことで世界観が全然変わってしまって、
いままで見えてこなかったものが見えるようになったんじゃないかな。
>>67
是非日記を読ませてください。
>>68
全ての絵(ジャンル(は同価であり、全てを吸収し、呼吸するバランスが大切、といつも彼氏は言っています。
しかしそんなことを言いながら一部の作家や、美術を良く知らない人を小ばかにした彼氏の態度は理解できません。
世界の、とか素人のという言葉を使うぐらいだからやはり優劣は感じているのではないかと思います。
絵を描いてる人、ぶっちゃけ自分とまわりのことどう思っていますか?。
みんなと一緒?、特定の人(ジャンル)を馬鹿にしてる?もしくは尊敬してる?
>>73
なんか彼氏が言っていることに雰囲気が似てるかも。
では質問、誰が認めてくれなくても、苦労すればそれで絵の価値は上がるのか?(そんなの自己マンでない?)
人に認めてもらう、他人に快楽を与える、ということは芸術においてどれぐらいの重要性を持つのか?(これも突き詰めすぎると、芸術というより、商売って感じ)
「他人」をまったく意識しないのなら絵なんて誰にも見せなきゃ良いじゃん、誰にも見せず、自分だけが良いと思い大切にしまっておけばいい。
でも殆どの作家が自分の絵を何らかの形で不特定多数の人に見せるのはやはり「認められたい、多くの人に理解して欲しい」という要求があるのだと思います。
そしてこの絵が良いって誰が決めてるんだろうね。
多くの人に指示される売れっ子イラストレーターなら、決めるのは大衆。しかしこれは芸術というよりも、デザインや生活と密接に結びついたものに感じます、そして売れるイラストレータというのは、絵を描くことよりも、時代を感じることや、ニーズに答える能力に富んでいるという気がします。
でも芸術は?っていうか芸術って何さ・・・・。
スゲエ。何か、難しい芸術論が飛び交っている。僕的には「理科の実験室にある、人体模型のイラストみてえな絵だのう。」とでもコメントしようかと思っていたけど、そんなくだらない事を言うと殴られそうなんで、やめた。
>>73
>一般人と芸術家の芸術に対する価値観は違う。
>一般人は「いかに自分に快楽を与えてくれるか」。
>芸術家は「いかに到達するのが困難な境地に辿り着くか」。
>(現実にはこれらが色んな割合で絡み合っていくんだけど)
へ理屈のようだけど
一般人は「いかに自分に快楽を与えてくれるか」。
芸術家は「いかに自分から快楽を得るか」。
だと思う。それは結局「いかに到達するのが困難な境地に辿り着くか」とイコールだけどね。
でも芸術は苦行じゃあない。苦しむこと自体が目的じゃあない。
と、信じたい。
>> 74
いろんな「芸術」にふれていくと
自分なりの分類が出来てきます。
私は音楽が好きですが、クラシックの中でも
私にとってこれは本質的にはヘビーメタルですね。
と思い込んで譲らないようなものもあります。
様式美や緊張感とでもいうか。ぜんぜん違うんですけど。
彼氏は好き嫌いだけではなく、画家らしく勉強も含めて
自分のジャンル分けが出来たんだと思います。
素人はしない、勉強もしているのでしょう。
えらい評論家の意見にも影響されていると思います。
そして、みんな芸術を愛する人は
自分の作った「目」にこだわりがあります。
なぜみんな自分と同じ芸術眼、感知眼をもっていないのか、
自分が泣いて人生が変わるほど感動したものを、
理解できない人がいることに、というか誰も知らなかったりして
少なからずがっかりしたような経験があると思います。
あなたは彼女ですから、彼氏は思いっきり
ぶつけてみたかったんでしょう。
分かってくれるとは思わないながらも
自分の芸術論を言葉にしてみたいんです。
まあ、平山さんはもう政治家?なんでしょうね。
わがままな感じはすると思いますが
芸術にのめりこむってそういうことではないでしょうか。
自分の中のリズムをぶつけて、自分の中にそれ以上の
反響を得られる媒体が良い芸術かと私は思っています。
直感、好き嫌い、勉強含めて。
自分も絵描きですが、
自分の描けないスタイルの絵は普通に凄いと思います。
なので個人的にはこの絵は絶賛します。
上手いとは思いませんが。
凄い異様なエネルギーはあると思います。
思うだけですが。
確かに76さんの言うように、芸術は
>一般人は「いかに自分に快楽を与えてくれるか」。
>芸術家は「いかに自分から快楽を得るか」。
みたいな事でしょうね。
ただ芸術ってのは結局は究極の無駄遊びですしね。
創り初めは社会的価値ゼロです。
後に歴史的価値、文化的価値等がでてきますが。
トリビアの泉のオープニングで言ってました。
人間は唯一無駄な知識を得る事で快楽を覚える動物である。
って。
人間は無駄の追及をしてしまうんですよ。
自分を誇示したいがために。
>>女aの彼氏さん
平山郁夫、ルノワール、ミュシャみたいな絵を貴方が描けるのなら貴方の言う事は間違ってはいませんが、そんな能力もないのに他人を卑下するのであれば、芸術家を名乗るのは辞めて評論家になったらどうですか?
芸術って、愛と同じだね。言葉では説明しにくいね。
理屈はともかく、作品のタッチだけ見ると、しかるべき場所で、しかるべき教育を受けた感がある。教育を受けたことのない作家だったら、もっと線が活き活きとしていてしかるべきかも。くらべてこの人の線は、少なからず計算している向きがある。ってゆうかタッチがこなれすぎ。若いころに描いていたのかな?いかにも1960年代って感じの絵だし。
芸術は欠けたものを補う運動である、
というみなさんの説を見て、勇気
づけられました。
私にはとても欠けたものが多い、
ですから。
それから、芸術家の彼氏を持つ方、
とても懐かしい論理が出てますね。
作品には、「いい」か「そうでも
ない」か、「好き」か「嫌い」か
2本の軸があると私は思います。
前者は、数を見れば、判断がつく
ようになりますよ。
まあ、金銭的価値は、絵画を投資対象
と見る方々が判断することですから。
私は芸術論はさっぱり分からないので科学的コメントしか出来ないのですが、
後天的サヴァン症候群に近いのではないでしょうか。
脳卒中等をきっかけとして左脳を損傷した場合に
他の部位がその機能を補完しようとした結果として起こるようですが、
理由は未だ不明ではあります。
痴呆患者が全員サヴァン能力に目覚めたらえらいことですし。
なお、先天的サヴァン能力を示す人には自閉症を伴うことが多いのは事実です。
24時間制作漬け等の事実から考えても、論理的思考を司る分野に
損傷があるのは間違いないのではないでしょうか。
たくさんのレスありがとうございます。
芸術の
いくつかにレスを。
>>36
芸術には疎いのですが、ラッセンの絵はすごくキレイだと
思うし、上手だなーと思います。
一番好きなのはキース・ヘリングですね。ってこの二人
全然違うけど…。
>>43
芸術なんて時代によって変わる相対的な価値で、
ゴッホみたいな巨匠でさえ蔑ろにされていたこと
があるんですよね。とすると、芸術の価値を計れるのは
「そのパラダイムの中で一番多くの人に支持される」
ということ以外にありえないと思うんです。
ゴッホの絵が良いと思われてなかった時代においては、
ゴッホの絵は真の芸術ではなかったんですから。
芸術の価値はあくまでその時代時代に限定されると思うし、
普遍的な芸術なんてものもないと思います。
これらの作品は凄いと思うけど、奥さんがかわいそうでかわいそうで(@@)いくら忘れちゃったからと言って離婚はダメダヨ。芸術に目覚めてもこういう展開は残念だなぁ、、、
私も絵でメシを喰っている者の一人だけれど、
こういうのを見るといつも思うのは(作品の善し悪しに関係なく)
彼(または彼女)がシラフの状態(この人なら脳卒中になる前)にこの作品を発表していたらどれだけ評価されていたか?ということ。
「脳卒中後」の絵(前は描けなかったのに今は描いてる)、だからすごい、という印象が一人歩きしているような感じを受ける。
自分にはこういうスタイルの絵は描けないから素直に尊敬するけどね。
彼はあえて商業ベースに乗らず、美大などに入って更に感性を高めてみるべきなんじゃないかと思う。そうしたらもっとすごいものが描けるようになるかもしれないから。
>>92 その通り!パチパチパチ! 余計な背景を抜きにして、純粋にその作品を評価するのも、また大切だよね。まあ、余計な背景が、その芸術のスパイスになる事もあるけどね。
色の使い方には多少エネルギーを感じるが、バランスが悪い。
ピカソの中後期の抽象画なんか雑に見えてもしっかりバランスが取れてる、線のリズムも気持ちいいし。
ピカソとくらべてもしょうがないけど基礎のあるなしは重要かと。
このニュースが言いたいのは脳卒中になった人が急に芸術活動に目覚めて、
それはとてもまれなことです。ってことだけでしょ。
ニュース内ではどこにもこの人の作品が素晴らしいってことは書いてない。
基礎がなってないとか論じたりするのは変じゃない?
だいぶ遅くなって恐縮ですが主観的でない回答をしてくれたきわめて少数の方々ありがとうございました。私の問いかけへの回答ではありませんでしたが大変同意できる回答も得られました。
>>44さん
否定から論じ始めて絶対的存在としての神を前提とした回答お見事です。芸術=金ではない結論として究極の解かと思います。
>>73さん
芸術を作る人、作らない人に分けた回答はとても納得しました。書籍「脳はいかにして神を見るか」で論じられている内容を踏まえると現在における科学的な芸術の価値基準として一つの結論だと思います。
>>34->89さん
「一番多くの人に支持される」は社会性をまったく無視できる人間でない限り評価せざるを得ない価値基準です。個人を捨てて論じたその意見に私も同意します。
このコメントは多くの主観的意見を否定するものではないことを付記して終わります。
熊谷守一も仙人とか、自宅から何十年出なかったとか
そうゆう何ていうか人物像がよく言われるけど
本人はとても嫌だったみたいだ。
ゴッホは貧乏、ピカソは女好きとかね
ホントは作品と関係ないけど
やっぱり、そうゆうことも知りたいって思うしね。
作品見て、ほほう~って思った人が
脳卒中ってきいて、ほほう~って思って
まあ、そんなんでいいと思うけど。
以前テレビで、ぼけた老人がすごい絵を書いてるの見たことある。
その人も絵は書いたことが無いって言ってた。
事故で頭を打ってから、何千年分のカレンダーが頭に浮かぶって言う人も出てた。
サヴァンの人たちと同じじゃないかって言ってたよ。
ふ~む、そうか。昔、工藤静香の絵が話題になったのも、しょせん描いた人がタレントだったからなんだな。 …そう考えると、すばらしい絵を描いているのに芽が出ない芸術家の人々からすりゃあ、面白くねえわな。
なんかこの人の絵、自分の描く絵とよく似てる。
自分はこんなに上手くは描けないけど。方向性が似てる。
自分はちょっと脳に欠陥があるのかもしれない・・・。
小・中学生ぐらいが奇想天外系の画風に憧れて、
ちょっと背伸びして絵を描こうとしたら大抵こんな感じにならない?
俺はそういう意味でところどころに「イタさ」、みたいなのが感じるれるんだけど…。
>104 芸術に限らずどの業界でも基礎のないやつは次のステップにいけんのよ。
おまえのがどのくらい芸術が理解できんのか披露してみろよ。
基礎しかない。
基礎があるが為に勘違いする人もいるはず。
基礎がないと進めない方向と
あえて、基礎を積まない方向が
あると思いますよ。
鶴太郎は、昔はしょーもなくて面白い芸人だったのに、今は文化人気取りで、えっらそーにしてるから嫌いだ。絵は上手いけどな。
ヘンリー・ダーガーとかアドルフ・ヴェルフリとか
いわゆるアール・ブリュットといわれる作家にいいのがある。
なぜこのおっさんの絵にこだわるのか?という言う印象。
げー術は好きだけど、上の絵は、僕にはでたらめにしか見えない。
きっと、脳卒中が致命傷を与えたのだろう・・・ぎょっっ。
遅乗りで恐縮だけども。
芸術(音楽でも文学でも映画でも漫画でもコメディいいけど)とは、人間の主観的な感性が生み出すもの。
けれどもそれを創る側の人間には、自分の創作する感動(悲しみとか喜びとか笑いとか)は、他の人間と共有できるものだ、という<信>がある。信頼といってもいいし、信仰といってもいい。
だから彼らは、自分の内側に潜んでいる、極端に言えば『人類普遍の何か』を掘り起こし、全ての人間に感動して貰うために七転八倒するわけだ。
作者の主観と無数の受け手の主観とが高い位置で出会ったとき、そのものを俗に「芸術」という。これは週刊誌のギャグ漫画でも原理的には有り得る話だと思っている。
だから、その作品につく値段というのは、価値を測る『目安』としては至高に近い意味を持つと自分は思う。それだけ、多くの人間に高く評価されているわけだから。もっとも、全ての人間に評価されるものなどありはしないし、評価しない人間にとっては、騒音や暖炉の薪にしかならないわけだけども、それはそれでいい。
今どれだけ売れてても30年後には一銭にもならなくなり「あの時代だったからね……」と言われる作品は無数にあるし、一方では生前は不遇でも作品は100年500年生きる作品がごく稀にある。だけども、自分が前者に感動したのなら、それは価値あるものだと胸を張っていいんじゃないのかな。そういうものの集体が作品を『芸術』にするのだから。
因みに、自分は絵はわからないので、記事の絵とピカソの区別なんてつきません。
鶴ちゃんの絵、スーパーの2階で1300円で売ってました。ホコリ被って。
おれはフミアートが好きだなぁ。とかね。言ってみたり。
(↑この辺みつを風↑)
「本」をよまなくても適度な脳障害で親方様が降臨するわけだ。
しかも、このおっさんにおいては、
親方様によって覚醒した芸術の才能は3つか。
すごいな。
俺、顔面攻撃ありの空手やってんだけど、俺も含めて皆中程度のパンチドランカー。でも、芸術のセンスがある奴は皆無!!!おまけにブァカばっかし。おっかしいな~?
げー術好きより、一言言っておこう。
絵画にはタイトルが重要なのだよ・・・。
それを如何に表現するかだ問題なのだ。
だから、彼は致命傷を負っているのだ。
>122
ようするに、なんだか分からないものを衝動のみで描くわけだろ。じゃあ、出来上がったものは何だ?。すなわち、なんだか分からないもだろう。そうじゃなきゃ、奇抜なガラだよ。それを私は出鱈目というのじゃよ。
あえてタイトル肯定派で。
どんな素晴しい絵でも
「○んこ」
などと名づけられたら全てが終わる。
まぁ、絵がよくわからん故に
「一体どれなんだ~!!」
という激しい疑問は沸き起こるが。
下ネタでスマソ。m(_ _)m<スルーシテクレ
三枚目すげー
男と女が見つめ合って相手を想うと同時に、そこに過去の恋人の面影を見ている。それを想起させているのは感触。
体の、感触。
その体の中をちょいと覗いてみると、ニューロンとシナプスのネットワークにおける電気的反応だったり血中蛋白質の濃度変化が起こっているのですよ。という、唯物論的恋愛観が表れているとみたね。要するに恋愛ってのは陽と陰の反応だよ。バックの緑と橙はそれを表しているんじゃないかな。下の狐みたいなのはきっと横恋慕したやつだな。その分黄色に侵食されている。
はは。おもろ。
3枚目の人体模型っぽさからALEX GREYを連想したので貼ってみる。
[ >> LINK ]
ちなみにタイトルは"Kissing"。参考までに。
"Kissing"いいね。こっちのがインパクトある。これ見た後だとトミー氏の絵はアール・ブリュットぽく見える。
前者の方がある意味戦略的。でもそれにしては「三枚目」、中途半端な知識を入れ込んでいるように思えるなぁ。
けどおもしろいからいいや。
工藤静香のオフィシャルサイトに、彼女の描いた絵があるので貼ってみる。
[ >> LINK ]
俺ァ絵は素人なんで良くわからんが、色の使い方は綺麗に見えた。でも人物の表情は幼稚だったような気が。 キ○ガイおやじトミー・マクヒュー先生は、彼女を越えたか?!
言語の役割は意志の伝達。
それを綴る人間と、それを読み取る人間がいて初めて意味を成すもの。
そのもの自体になんら価値はない。
そういった意味では、言葉を超えた世界と解しても問題はないのでは。
>>135
おっと、受けて立とう。
つまりは「言語により表現し得る芸術」と「言語により説明し得る芸術」の違いかな。絵画や彫刻を目にしたときの感動を言葉にしようとしてもなかなか困難だよね。かつこれを成し得たとなるとこれはまた独立した芸術になるのかな。
一方で言葉そのもので表現されるアートだってあるのだ(断言)。
イメージが言葉を生み出し、言葉がイメージを育む。
この先は感動と媒体論になっちゃうよ。
さて僕の知人で生まれてこの方小説の類は一切読んだことが無いという人物があります。小説は何を読んでも戯言にしか思えない彼は実用書ばかり読んでいるのですが(設計技師)、どーもこの人物は先天的イメージ欠損症のように思えます(微笑)。絵画など論外です。
ジョークが通じないわけではないのですがねぇ。
「そういった意味」
芸術と感じるのは人間の心。
決して言語という記号の羅列からダイレクトに与えられるものではない。
ご理解いただけただろうか。
文章足らずで申し訳ない。
私は自分の作品に熱心に「タイトル」を付けるタイプ。
表現力が足りなく、伝えきれないものを
言葉で補おうとしてると思われる。
135の伝で行くと「絵具を塗ったキャンバス」という物質じたいにも価値はないよね。芸術家が
材料に低エントロピーの状態を与えて魂―この言葉は気軽に使いたくないが―の交流を試みる。
それは鑑賞する人間がいて初めて意味を成すもの。その物質や、「言語という記号の羅列」じたい
にはなんら価値はない。だから絵画についてもタブローを超えた世界とも言えることになるよね。
その意味ならよく分かる。で、鑑賞するのに言葉は不要ってことなんだろうけれど、
>132
なによりここにあなたが来た事が不思議なんだな。126が駄文てことは認めるけどさ、
絵を描く人が話題になっている所で言葉であれこれ言うやつがいるのは当然でしょう。
それが気に入らないならこんなとこに燻っていないで巷に跳梁跋扈する評論家先生たちを
全部やっつければいいじゃん。て言っても鉛やカドミウム入りの画材を喰わせるとかそういう
不穏なことじゃなくて、あなた一流の美学を展開して評論の不可能性を証明する。
その時のツールは、言葉だよね。
けんか売ってるように思えたらごめんね。要するに言葉を過小評価する必要はないって
ことが言いたいんだけど。
ところでこれはたぬき氏にすら解き得ないアポリアかも知れないけれど、
なんで信楽焼の狸は金玉を露出してるの?これも芸術なの?
>>139
ンなもン知らんわっ(笑)。
なんといっても八畳敷とまで形容される彼らのアイデンティティーの(オス限定)源だから外すわけには行かないアイテムなのでしょう。
子供の頃近所の同級生の姉がぬいぐるみを集めておりましたが、狸のぬいぐるみはシッポと前後に並んでちゃんと金玉袋もぶら下がっておりました。
感動があればなんでもアートです(暴論)。
ついでだからもう少し要らん事書いとこう。
夜中に農道をバイクで走っているとよく狸が短い脚振り回してぽてぽてぽてぽて…と。野生の狸は本来もっとスリムなはずなのに畑荒らしたり残飯漁ったりして丸々と太りやがって我が眷属ながら(違うって)情け無い。
>140
えーと。まず、「アイテム」なのですかね?で、別にそれを見て感動したりはしないよね(笑)。まぁどうでもいいけど。いや、ほんと関係ないことだけどね。失礼しました。
こんな場所であなたのような稀有の動物に邂逅できたついでにもうちょい脱線すると、136であなたが小説と実用書を分けていることが引っかかったのだけれど、マクベスの冒頭で魔女が「きれいはきたない、きたないはきれい」って言うでしょ?これに、例えば、「合理」と「不合理」とか、「実用」と「非実用」などの言葉も置換できると思うんだよね。だから人生において小説―或いは芸術一般―もいわゆる非実用の代物ではないと思う。言いたいこと、分かりますよね?
ところで話を本題に戻すと、106で面白いこと言ってる人がいますね。シュルレアリストのいわゆる「方法としての既知外」てやつですな。トミー氏の場合はどうなんでしょうね。「脳卒中で芸術に目覚める」か...
>>141
もちろんわからないでもないのですが、例えば彼に向かってグレゴール・ザムザでも引き合いに出せば
「人間が虫になるはず無いだろう!」
の一言で終わってしまうので話が続かないのですが。
本棚には技術関係の文献ばーっかり並んでいるのでこの分野に関しては取り付く島もありまへん。
家族には気を使うし彼なりのユーモアもあるので何が心配と言う事も無いのですが、未だに彼と共通する話題というとラジコン模型のコントロールデバイスに関してぐらいですか。それでも模型そのものにはさっぱりなんですけどね。
なんといってもマンガもほとんど読んだことが無いというので一体どんなテレビ番組を見ていたのだろうと訊ねてみると開口一番
「レンズは探る」
ここまで徹底してるとなんだか凄いなーと。
御父上の影響も強かったようですが。
人間における示唆としての小説の実用性はもちろん僕も大賛成ですが、世の中時にこうしたものを一切必要としない、というより理解する才能に恵まれなかった人物もあるのです。
>>142
僕も悩みます、主に食費との兼ね合いですが。
>142
発芽玄米旨いよ。味の濃いおかずに合う。他の生命を頂いて、自分の生命を長らえる。全体からみるとそれは一つの大きな流れ。生命の活動で次元の低いものなどないよね。
>143
虫!鉄筋コンクリートの寓意が虫だとか(笑)。いやこれはさすがに分からんけど。
今ふと思ったけどカフカと内田百閒、なんとなく似てますね。どうしようもない居心地の悪さとか、「なんでやねん!」て感覚とか。上のは朔太郎ね。
レンズ、いいと思いますけどね。個人的には好き。
ガストン・バシュラール「空間の詩学」第七章 ミニアチュール
とか、読んでみて。「レンズは探る」、いいなぁ。工業製品などにも豊饒なイメージはあると思う。上に書いてる人いたけれど理科室の人体模型にも。ここでまた、逆説が生まれる。まぁ例えばビルドゥングス・ロマンが上に挙げた意味での実用小説の類いだとしたら、んなもん知らんよ。ていう小説にも面白いものありますよね。だから、その知人の人を少し見下しているふうがありますけど、端から見るとそれはもったいないと思えるのですよ。説教ぽいこと言ってすみません。
で、本題に戻るけど、「きいちのぬりえ」から推定するとたぬきさんは21の私の二倍以上生きてらっしゃるようですね。禁止される前にLSD、やったことあるんでしょ(笑)。「2001年」今、一寸ピンとこないんですけど、ディズニーの「ファンタジア」とかもアレですかね。
トミー氏の「二枚目」、カンディンスキーの絵に少し似てる所ありますよね。彼は共感覚があったようですが、LSDで人工的に体験できるらしいそれを、トミー氏は後天的に得たのかもしれない。「観音」て言葉があるでしょう。これはサンスクリット語の意訳の筈だけど、「音を観る」、そういう境地に達したのかもね。脳卒中で(笑)。
五感として分けて感覚する以前の「なにか」
「マドレーヌ&紅茶」的感覚。クオリア。
そういったものにも関係していそうですね。おもしろい。
>>144
ずいぶん前から標準米です、いや違った、さすがに二倍以上もにはなりません。蔦谷画伯は塗り絵の世界でごく最近まで現役でした。といってもふた昔前か。
彼のことは少なくとも見下してはいませんが、それこそもったいないなとは思います。「レンズは探る」というのは大昔いぬあっちけーで放映されていた教育番組で、赤外線、X線、ミクロ、スペクトル分光、高速度、超低速などの各種の撮影技術を組み合わせて自然現象の不思議さ面白さを子供向けにわかりやすく解説するという、理科好きの子供には大好評だけどそうでない子には頭痛の元でした。
僕は「これも」大好きでしたけど、同時期に放映されていたアニメ番組の話題になると「どうしてあんな幼稚臭いもの」という顔をされるのでよほどこちらのほうが見下されてますが(笑)。
ディズニーは「ダンボ」がアレではないかという噂がありますね。
それにワタクシそこまであからさまな薬物はやっておりませんです!
なんとなくいよいよ僕自身が肴にされている気がする。うーむ。
すごい色づかい。
個人的には絶賛。
デッサン力なんてこの人の作品にはいらないんじゃないかな?
と、偉そうなこと言ってみる。
絵画で誰が1番凄いかと聞かれたら、誰と答えますか?
私は山下清だと思います。
ご飯をノリ代わりにしたのですから。
制作に熱中してるとき、
手が自動で動いてるような感覚におそわれ
頭の中が限りなく白くなって、
作品と私だけがこの世にあるような、不思議な恍惚状態になったことがある。
その時に、ちょっとだけ芸術に触れたと思った。
一瞬の異常な感情の高ぶりを具現化して
そのエネルギーがずっと褪せないような作品が生まれたら
それは芸術と呼ばれるのだと思う。
トミーさんの場合、脳卒中が原因できっと体の中の栓が飛んだんだと思う。
人々が苦労して抜こうとする感情の栓。
私の激情はまださすがに100年も消えないようなものじゃない。
日々精進です。
152さんのような「頭の中が限りなく白」くなるって、
どんな感じなんだろう?
僕の場合、何かをデザインするとき、
白というよりも色々な色が頭にあるんですよね。
それをスケッチブックやキャンバスに描いていくって感じ。
芸術にまだ目覚めていないのかな?
芸術とは、見るものを圧倒し、または何らかの影響を与え、
且つ、作品の作り手の創造性が発揮されることだと、
昔見たことがあります。