【Post-Gazzete】とある精神病棟の一室、患者のジョセフは鏡を覗き込み、そこに今まで見たことのない男の姿を見つける。彼は不思議に思って自分の頬をつねる。鏡の中のその男もまた、頬をつねる。しかし、それはジョセフではない。「俺、最近顔変わったかな?今までと何か変わってない?」彼は周りの人々に尋ねた。米NY、クイーンズ在住の几帳面な老婆、ロザモンドも同じ問題を抱えていた。鏡の中の人物と自分との相違である。そして彼女の場合は更に特殊である。彼女が鏡の中で向き合う女性、その女性は彼女の旦那の事を奪い取ろうとしている女性であり、明らかにその女性はストーカーであるとロザモンドは考えていた。彼女はその女性の事を「あばずれ女」と呼び、その女性を鏡の中に見つける度、ヒステリーを起こした。
やがてロザモンドの旦那は彼女のヒステリーを抑える為に、家中の全ての鏡や像を反射するものを布で覆い隠したが、それでも彼女のヒステリーは納まらず、度々その「違う女性」を攻撃しようとして、結果、彼女自らの身体を傷つけはじめた。ロザモンドの旦那は最終的に食器棚の窓から車のミラーに至るまで家の周りのあらゆる「反射するもの」を布で覆い隠さざるを得なかったという。
このジョセフとロザモンド(共に仮名)は非常に稀な精神障害の患者である。この症状は脳のある部分、「我々は誰であるのかを考える」部分に障害をきたしているという。しかし彼らのこの奇妙な混乱はまた、単に鏡の中を見つめるだけでは我々は自分を十分に認識できない - つまり、鏡に映っているものが自分であると認識する為には、それ以前に鏡の中に映るものが自分であるはずだという前提的な思考を必要としている、という事実を我々に示すのである。このジョセフとロザモンドの妄想の科学的な呼称はは「鏡像誤認(mirror self-misidentification)」と呼ばれ、カプグラ症候群に最も多い症状のひとつであるという。
このカプグラ症候群は発見者のフランスの精神科医Jean Marie Joseph Capgras氏にちなんで付けられた非常に奇妙な障害で、アメリカでは現在何千人もの人々が苦しんでいる症候群である。ジョセフの担当医師MatcheriKeshavan氏(米ピッツバーグの神障害神経科学センターチーフ)によれば、この症候群は患者のみならず、患者の周りの人間も巻き込んでしまうと話している。「カプグラ症候群の患者は周囲の人間を詐欺師だとか、とにかく実際の彼らの姿以外のものと認識してしまうんです。」
さらにKashavan氏は続けてこの症候群が示す妄想の背景について次のように説明している。「我々は、我々の内側に外界の概念を保持しています。それは他人のアイデンティティであったり、我々自身のアイデンティティを含んでいます。そして例えば誰かと会うとする。その時、我々は内側に保持された個々のアイデンティティのイメージとその人に対する情動がその外界の実在の人物とリンクすることで始めてこの人は母親、この人は友達、と言う風に他者を認識出来る訳です。でも万が一、情動と記憶をリンクする脳の部分に障害が会った場合、この状態は崩れてしまうわけです。すると脳は潜在意識のレベルで混乱して強引な代替の説明を探すんですね。この人は誰であるかという事についてね。それで突然、鏡の中の人物が自分でない誰かになってしまう。鏡の中の人と自分の記憶、情動が不一致するために、他人として認識されてしまう訳ですね。大雑把ですが、こんなところです。」
カプグラ症候群の患者が誤認する対象は必ずしも人間だけではない。時にそれはペットや物にすらなりえるのである。仕組みは一緒で単にその物自体と自分の情動を関係付けられない為に起こるのだという。カリフォルニア大学で脳認知科学の鞭を取るV.S.Ramachandran博士はその著書、「Phantoms in the Brain」の中で、あるカプグラ症候群の患者 - 彼はペットのプードルが違う犬とすり替えられたと認識している - が登場する。またKeshavan氏によれば、現在彼が担当している患者の中には、毎晩寝ている間に全ての所有物(ランニングシューズなどなど)が違うものにすり替えられていると妄想する患者もいるという。
またKeshavan氏によれば、これまでの研究で、普通、人はある知り合いに会った場合、わずかに発汗し、皮膚の電気伝導といった反応が見られるが、カプグラ症候群の患者の場合、知り合いに会った場合でもそうした反応が見られないことを指摘している。
こうしたアイデンティティの誤認について詳しい「Altered Egos(邦題"自我が揺らぐとき")」の著者ToddFeinberg氏は、カプグラ症候群の症状は単なる情動の断絶以外にもまだ研究すべき余地があると主張している。彼は例として上述のロザモンドのケースを挙げ、次のように語っている。
「彼女が誤認するのは自分自身のみです。旦那や、周りの物は全く問題なく認識するのにも関わらず、です。それに彼女がその鏡の中の女性を見たときにどうしてそんなにヒステリーを起こすのかと言うことについても、上述の断絶だけでは完全には説明できないはずです。ひとつの試論ですが、カプグラ症候群の患者は誤認する対象に対して常にアンビバレントな感情か、嫌悪感を抱くのかもしれない、ということは考えられるかもしれません。もちろん自分自身の誤認も含めてです。ある有名な一例として、年配の女性が自分の面倒を見てくれてる自分の娘の事を詐欺師だと思いこむケースがあるようにですね。」
そして奇妙な事に、上述のKeshavan氏のケースにしても、Feinberg氏のケースにしても患者のケースは常に極端なのである。
Keshavan氏は一例を挙げて語った。「我々は時として、良く知る人について急に"別人だ"と感じるようになることがあります。それは実際のところ、我々が保持しているその人についての既知情報と、その人自身が食い違った時に起こります。あるいは、時として誰かに対して非常に腹を立てたり、がっかりさせられた時はその人の事を今までとは違う目で見るようになるはずです。そして次にはあの人は変わってしまった、と考えるようになるわけですね。でも実際のところその人はその人に変わりはない。ただ、我々が保持する情報が変化しないだけなんですね。」
Feinberg氏によれば、我々の多くは、物や出来事から"乖離"する瞬間があると指摘している。それはDeja Vu(デジャヴ、既視感)- 初めて起こる出来事を既に体験したように感じてしまう感覚- や、Jamais Vu(ジャメヴ、未視感) - 経験済みの事を初めてのように感じる感覚 - にも似ているという。
「例えば、こういうシチュエーションはないでしょうか?あなたが新しい靴を買った後で、古い方の靴を見る。あなたは何故そんな汚い靴を六ヶ月間も履いていたのかもはや分からないでしょう。しかし、実際にはその古い靴は脱ぐ前と全く変わっていない。あなたの中でその靴に対する感情が変化しただけなんです。」
また我々は夢の中でしばしばカプグラ症候群のような妄想に陥るという。「例えば夢の中で、普段知っている人の性格が現実と違ったり、いつも暮らしている自分の部屋やオフィスにいるのに、それが現実のものとは全く違ったりといったことですね。」
またkeshavan氏によれば、カプグラ症候群に苦しむ患者の3分の1が側頭葉の癲癇か奇形脳のいずれかを持っていると話している。側頭葉は耳のすぐ上にある脳の部分である。またFeinsberg氏も同じく、そうした患者は脳の側部(自己支配と他者への支配欲求を司る部分)に病理を抱えている傾向が高いと指摘している。
こうした複雑な症状にも関わらず、ジョセフ、ロザモンド両者はこれまで見事に治療されている。しかし、両者それぞれ違う方法によってである。
「最終的に、ジョセフは精神分裂病を患っていると分析されたんです。それで彼は向精神薬のクロザピンを処方されて、今は完治したようです。」Keshavan氏は語った。
一方、ロザモンドはFeinberg氏の一風変わった方法で治療されたという。「ある時、ロザモンドの旦那が気づいたんですが、ロザモンドはメイク用のコンパクトミラーを見た時に限っては彼女が嫌悪するその女性の姿を見ない、という事を発見したんです。」そしてFeinsberg氏はそこから着想し、徐々に鏡を大きくしていく方法を試すことにしたのである。「私はオフィスをあちこち歩き回って色んな鏡、それぞれ違うサイズの異なる鏡を用意しました。それで彼女に、徐々に大きい鏡を与えながら様子を見、最終的に彼女が全て映る大きさの鏡を与えたんです。」そして氏の目論見は的中し、最終的にロザモンドは全身鏡に映るその人を彼女自身であると確信できるに至ったのである。「うまくいった時は私自身、本当に驚きました。本当に成功したんです。」Feinsberg氏は語った。
このジョセフとロザモンドのケースは我々に何を教えるのだろうか?
「一つの結論として、我々のアイデンティティというのは我々が想像する程には厳密でも、また正確でもないと言う事でしょう。しかしまた、我々は常に”我々の身体はどこからどこまでなのか?そして我々は世界の中の何者なのか?”といった感覚を常に修正しようと考える傾向があると言う事ではないでしょうか。そして実際、我々のアイデンティティというのは常に変化の中の一定の状態であって、絶えずそれは変化しているということです。」Feinsberg氏は語った。
【参考】カプグラ症候群 | フレゴリの錯覚
鏡像段階 | [映画]ドッペルゲンガー
症候群・シンドローム~心と体と社会の病理
はじめまして
いつも楽しく読ませてもらっています。
僕は機械の事について詳しくはありませんが、この記事を読みながらなんとなく思ったのが。人間の脳って物はどこかPCなどの機械に似ているような気がしました。使っているうちに付いてしまった癖や、どこかで欠損してしまった情報などが人間の方向性を左右するのかもと…?
うちの母ちゃんなんかはTVとかの調子が悪いと叩けば直ると思ってますけど、人間の場合は調子を直す為には叩くだけじゃなくてちょっと視点を変えたり機転を利かす事も大切なんですね。
これからも面白いニュースを期待しているのでがんばって下さい。
私も最近このサイトをみつけ読み始めたのですが人間の頭がPCに似ているという話を聞いて、あーそうかも知れないと思いました。まぁたいしたことかけるほど知識があるわけじゃないのでこれ以上は直感としか言いようがありませんが・・・。
PC自体はもしかしたら人間の頭脳に似せて作ってるのかもしれませんね。
そういえば小学生の頃、ぼきは、周りは皆ロボットだ、と想像してみたことがあったな。そんで、自分だけが人間。みんな、人間でない。そんなことを想像しなが授業を受けてたもんだね・・・っていうか、大抵のそんな病気みたいなものは、僕が想像の世界で楽しんできたものなんだけどね。
だから、それが、病気だといわれても、ぼきは、
「リンダ困っちゃーう」(古)