【ABCNews/NEWS.com.au】ジェームズ・マクガウ博士は、世界屈指の記憶機能研究者である。しかしここ数年、氏はこれまで遭遇したことのない、全く新しいタイプの記憶能力保有者と出会い、頭を抱えているという。マクガウ博士がその女性を知ったのは今から6年前のことである。AJとのみ名乗ったその女性は、博士にあてた最初の手紙の中で、あたかも”走馬燈のように”これまでの人生全ての日々が、頭の中を駆けめぐり続けるという、到底信じがたい話を綴っていた。”ノン・ストップの、コントロール不可能な記憶の想起で完全に疲弊しました。自分の全人生が毎日頭の中で反芻され、狂ってしまいそうなんです。”そして彼女は、博士に助けを求めたのである。
無論、当初、マクガウ博士は他の”優れた”科学者達と同様、彼女の話に極めて懐疑的であった。それは言わば当然の態度である。しかし五年に及ぶ調査を経て、現在、博士はもはや彼女の能力を疑うことは出来ないと断言する。「これは本物です。」
AJの手紙を受けて間もなく、博士は、勤務するカリフォルニア大学アーヴァイン校の同僚、エリザベス・パーカー博士(精神医学、神経学教授)、ラリー・カヒル(神経生物学、行動学助教授)らと共にAJの専門研究チームを結成し、徹底的な心理学テストやインタビューを行った。そして五年に及ぶ調査が続けられたが、結局、今日に至るまで、彼女の能力について、博士らはまだほとんど手がかりを掴めずにいるという。
「彼女の能力を解明すべく、様々な方法を試みているのですが、いまだに”これだ”というものはありません。」
マクガウ博士はこれまで、他の卓抜した記憶能力保持者と彼女を比較し、その原因を究明すべく様々な仮説を立てた。しかしそれはほとんど的外れか、あるいは不完全な結果に終わった。例えば博士は彼女の記憶能力について、次のような仮説を立てた。それはストレス・ホルモンが記憶能力に影響しているという研究から、AJの場合は感情が記憶能力に作用し、あらゆる物事を忘れることが出来ない、というものである。
しかしその仮説は、すぐに間違いであることが判明した。何故ならば、彼女はある日におけるごく些細な事柄さえ ― 大きな出来事と同じように ― 完全かつ明瞭に記憶しており、即ちそこに感情の起伏などが介在する余地はなかったからである。例えば彼女に、”1977年8月16日に何が起こったか”と訊ねると、彼女はまず即座に”エルヴィス・プレスリーが死んだ”と答える。しかし同じように、翌年7月6日にはカリフォルニアの税制が変わり、その翌年5月25日には、シカゴで飛行機が墜落した、といったようにありとあらゆる日々の出来事を記憶しているのである。つまり、これら出来事の幾つかは彼女にとって個人的な意味合いを持つものもあれば、まるで無関係なものもあるのだ。
また例えば彼女にある日について尋ねたならば、彼女は即座に、その日が何曜日で、何を着て何をしていたか、思いだすことが出来る(彼女は毎日日記を付けていたため、それらが正確であることが確かめられた)。その為、今では友人から”人間カレンダー”と呼ばれることもあるという。
「このように、彼女は卓抜した記憶能力を持っているんです。しかし、彼女が記憶しているものの多くは、私なんかまるで覚えていないことばかりです。ある日、私が彼女にビング・クロスビー(※1940-60年頃に活躍した米国の歌手)のことをを知っているか、と訊ねた時のことです。私は彼女が知らないと思っていました。何故ならば、彼女はいま四〇歳、つまりビング・クロスビーが名を馳せた世代ではなかったからです。」
しかし彼女は知っていたのである。そして「私は”彼がどこで死んだか知っている?”と訊ねました。」すると彼女は次のように答えたという。「確か、彼はスペインのゴルフコースで亡くなったわ。」そして彼女はそれが何月何日何曜日の出来事であるかさえ、あっさり語って見せたのだ。
「また例えばある時、我々は五年に渡る過去の調査のうち、何月何日に彼女にインタビューを行ったか、それを答えてください、と彼女に問うたんです。すると彼女はまるでフィルムを巻き戻すように、何月何日、その次は何日、と簡単に答えていくわけです。」
更に彼女は、数年前のある日、インタビューの後で博士がドイツに向かったことさえ、記憶していたという。「私が何年何月何日にドイツに行った?そんなことは、私だってまるで覚えていなかったことです。」
こうした高度な記憶能力は、これまでとはまるで違うタイプのものであるという。例えばある人々は、過去の出来事を分類して記憶する事が出来る。それはある出来事、事実、それらを別の何かと結びつけて記憶し、後で簡単に想起する方法である。これは一種の記憶術とでも言うべきものであり、しばしエンターテイメントとして行われ、人々を驚かせることがある。しかし彼女の記憶能力はこれらの方法とはまるで異なるものだと博士は語る。
「AJは、幾らかの強迫観念的な傾向があります。彼女は人生に秩序を求めているようにも思えます。まだ幼い頃、彼女の母親が部屋を勝手に片付けると、彼女はひどく怒ったそうです。それは彼女が、自分の求める方法で然るべきものを然るべき位置に置いていたからなんです。つまり、彼女は出来事を日付で分類していると考える事も出来ますが、しかし、では何故それで記憶出来るのかということの説明にはなりません。」
また博士によれば、彼女の記憶能力は、これまでに記録された他の如何なる記憶能力保持者のそれよりも、卓抜したものであるという。しかし彼女の能力は例えばサヴァン症候群の人々とも大きく異なるものである、と博士は付け加えている。
「サヴァンの人々はある特定の趣味、例えば野球やカレンダー、芸術などに特異な記憶能力を発揮しますが、その範囲はとても限定的なんです。私の知るあるサヴァンの人は、音楽を聴けばすぐにそれを完全に記憶することが出来ます。しかし彼は釣り銭の計算も出来なければ、バスに乗ることも出来ません。彼は自分が何処にいるのかも把握できないからです。」
しかしそれとは対照的に、AJは”完全に自立的な人間”であると、博士は語っている。
今後マクガウ博士らは、AJの能力を解き明かすため、新たな視点から彼女の能力を研究していくという。それは例えばAJの脳を磁気共鳴画像で撮影し、その脳の構造を調べることなどである。「今後は彼女の脳をスキャンして、そこに特別な何かがあるかどうかを見極めたいと思います。」しかしもちろん、彼女の脳における何らかの特異性が認められたとしても、まだそれで彼女の記憶力の秘密が明らかになるわけではない。
博士らは彼女のこの症状を”Hyperthymestic Syndrome”と名付け、今後も研究を続けていくという(※語源であるThymesisとはギリシャ語で”記憶/想起”を指す)。しかしまだAJの研究は始まったばかりである、と博士は付け加えている。
「ある現象を説明するためには、まずその現象を理解しなければならないわけです。我々はまだほんの始まりに立ったに過ぎません。」
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