【TheChronicle】1856年夏、古びた英国の領主宅、スタントン・ハーコートを訪れた作家ナサニエル・ホーソーンは、その家にある大きな調理場にそれまで感じたことのない不思議な印象を受けた。その調理場は地下室全てを使った非常に大きなものだった。「かつて幾人ものシェフ達がここでせわしく動き回り、騒々しい雰囲気の中、鶏や牛の肉が焼かれたのだろう」 - 1863年に記した旅行記「Our Home」の中に、彼はそう記している。そしてホーソーンは調理場の中に立ち尽くし、その時受けた名状し難い感情をして、以下のように続けている。「私はその時、何か恐怖とも混乱ともつかない、不思議な感覚に襲われた。私はかつて、この光景を見た、確かにそう感じたのである。調理場の天井の高さ、暗さ、そしてこの陰鬱なまでの空虚。私はこの調理場を眼にしたとき、勝手知ったる祖母の美しい台所を見る時に感じるような、"そこを既に何度も訪れた事があるような感覚"を確かに感じたのだ。」
しかし、彼がそれまでそこを訪れた事もなければ、そのような場所を見た事がないことは事実だったのである。そして彼はその事実と記憶、感情の間で揺れ動きながら、その時の気持ちをこう記している。「それは本当に不思議な気分だった。私はまるで自分自身をからかうような、気まぐれな記憶とでも言うべき、過去の残響を眼にしているような気分だった。」
ホーソーン(写真)が記したこの出来事には、その当時、まだそうした現象を説明する言葉は存在しなかった。しかし、19世紀の終わりになると、そうした現象が「誤認識」、「記憶錯誤」などと呼ばれるようになり、やがて、学者達はとりあえずの正式な呼称としてフランス語の「デジャ・ヴ(déjà vu)」あるいは「既視(already seen)」を一般的な呼称として用いるようになる。
しかし以前からデジャヴは確かに存在し、それに伴うある種の憂鬱、そして不思議な幸福感は詩人や作家、オカルティストなど様々な人々を魅了してきた。例えば聖アウグスチヌス、ウォルター・スコット、ディケンズやトルストイまでもがそうした朧げな現象をそれぞれ自分の言葉で記述している。しかしこの現象は1890年代以降、多くの学術的心理学者の間では全く無視されるようになる。その当時、このデジャヴを説明する科学力はなく、それらは単なるうわごとの類いとして認識されてしまったのである。
またこのようにデジャヴが忘れ去られた背景には、この気まぐれな現象の発現が余りにも一瞬の出来事であり、また明確な再現性もなく、更には何ら行動となって外部に現れるものでもないということが挙げられる。従って、例えばデジャヴがもし、くしゃみのよう頻繁に起こりえる一般的現象であったとしても、そうした理由から研究することは非常に難しいとされたのだ。
そしてまたその為、数少ないデジャヴ研究者達は、デジャヴの体験者 - 当然、彼らは決してホーソーンほど雄弁なわけではない - からの"余りにも漠然とした"話を研究対象として調査する以外になく、これまでこのデジャヴという現象を「興味深いが、どうにも出来ないもの」と分類し、長い間引き出しの奥にしまいこんでいたのである。
しかしここ20年の間、このデジャヴ現象は再びにわかに注目を浴び、記憶、そして認識に関する様々な研究が行われた結果、徐々にこの現象の謎が解き明かされつつあるという。メソジスト大学心理学教授アラン・S・ブラウン博士は最近発刊された認知科学論文誌に「The Déjà Vu Experience」と題した論文を寄稿し、以下のように記述している。
「我々が解明しようとしている事は、様々な角度でゼロからもう一度この現象を見直すことです。それは決して、例えば"これで謎の現象を完全解明!"といった類いの研究ではありません。しかし確実に、ゆっくりと現象を明らかにしたいと思っています。」
このデジャヴ現象は19世紀、多くの心理学者らによってほぼ興味本位で研究されたが、当時の研究はまた手探りながら、現代の研究へも貢献しうる多くの示唆を含んでいる。例えば1878年にドイツの心理学者が発表した論文では、デジャヴを、本来脳内で連動して発生する「知覚」、そして「認識」という二つの現象がズレて発生することが原因であるとし、またそのズレは「疲労」によって生ずると分析している。
またそれから11年後、クラーク大学心理学教授ウィリアム・H・バーンハム博士は上述の分析とは異なった見解を示している。博士は論文において、デジャヴは脳が異常に休息している状態に発生すると予想し、「例えば我々が奇妙な物体を目にしたとき、その見慣れない外観から脳は物体を統覚(過去の経験によって新たな知覚を理解すること)することが出来なくなる。しかし、脳が"異常に"休息している際には統覚機能が誤作動し、似た記憶と結びつけられ、結果、デジャヴという現象が発生する」と推測しているのである。
これらの推論は一見もっともらしく見える。しかし、本当に我々の脳の秩序はこれらランダムなイメージによってこうも簡単に撹乱されてしまうのだろうか?近年の研究では、脳はあるイメージがそれまで既知の情報であるかどうかについて、速度が重要な意味を持つという事を示唆している。つまりもし我々の脳がイメージを素早く、円滑に処理するならば、そのイメージはそれまで既に見た事のあるイメージである事を意味しているというのだ。従って、この「疲労」理論、そして「異常休息」理論は棚上げされたままであると言わねばなるまい。
一方、1896年にはコロラド大学心理学教授アーサー・アリン博士がデジャヴ現象に関する様々な推論を書き連ねている。博士は新たな解釈として、デジャヴはあたかも忘れてしまった夢のような現象であると記述している。それは例えば、我々が新たなイメージを目にしたとき、それに対して誤った既知の感情が呼び起こされる現象であるとし、その原因となる、新たなイメージに対して脳が行う分析の最中に発生する非常に短時間の中断がデジャヴ現象であると推測しているのだ。
しかしまたこれら独自のデジャヴ解釈は20世紀初頭、フロイト主義者の台頭によってその多くが影を潜めることになる。フロイト(写真)の影響を受けた学者らはこのデジャヴ現象を超自我、そしてイド(id)に対する自我の闘争の紛れも無い証拠であると推測したのである。1945年、英国の心理学者オリヴァー・L・ザングウィル博士は15ページに渡るエッセイにて、先のホーソーンがスタントン・ハーコートで体験したした現象を取り上げ、それはホーソーンが幼少の頃に抱いた、未解決である母への思慕が原因であると分析した。(しかし、ホーソーンは自身が体験した現象をして、かすかに覚えていたアレクザンダ・ポウプの詩によって誘発された感情であると後に記述している)またそれから久しくして1975年には、高名な心理学者バーナード・L・パセラ博士はデジャヴは自我が退行パニックに陥った際に発生する現象であると分析し、「デジャヴは自身の記憶をリビドーに向けてスキャニングするように段階的に遡行する現象」であると記述している。
しかし今日、デジャヴ研究者の多くはこれまで主流であったフロイト的解釈を放棄し、再び脳の中の働きにその謎の答えを求めている。先のブラウン博士はデジャヴ現象を分析するに当たって、近年の記憶に関する研究を応用し、さらにヴィクトリア朝時代後期の理論にそのヒントを見いだしたという。しかし博士は一方で、研究はまだ初期段階にあり、今後厳格な実験が必要であると話している。また現在、博士はこのデジャヴ理論に関して4種類の予想を立てている。
一つは「二重処理理論」である。神経精神病学者のピエール・グロア博士は1990年代に行った実験から、記憶には「回復」、そして「既知」を司る機能が存在していると主張し、1997年、氏はそれらの理由から「回復」機能が働かずに、「既知」の機能だけが働くという稀な瞬間に、デジャヴが発生しているのではないかと推測している。またその理論を受けて、他の学者らは「回復」機能が完全に停止するということは考えづらく、従って、それら諸機能の同期がズレた瞬間こそがデジャヴではないかと主張したが、この理論は先に挙げた19世紀の疲労理論を思い起こさせるものであることは明らかである。
二つ目は、より単純な神経病学的説明である。博士はこの理論において、デジャヴは非常にわずかで、短期的な発作(癲癇などの類いの)が原因ではないかと推測している。またこの理論の背景として、博士は癲癇患者の多くが発作を起こす寸前に、非常に頻繁にデジャヴを見るといった報告を受けたこと、更に脳の特定領域への電気刺激によってデジャヴが誘発されたことを挙げている。また他にも2002年にオーストラリアの癲癇の専門医師ヨゼフ・スパット氏が発表した論文には、デジャヴは海馬傍回(この皮質は既知を見分ける機能を持っている事で知られている)におけるランダムな情報伝達が原因であると予想している。
三つ目は「記憶理論」である。この理論で博士はデジャヴは様々な記憶に起因すると推測しており、それは例えば実際に既視のもの、あるいは想像したことがあるもの、あるいは映画や文学において知ったもの、更には夢の中で見たものさえも含まれている。また更に、この理論においては記憶の全てではなく断片さえもデジャヴを引き起こす原因になり得ると推測している。(ホーソーンの例で言うならば、スタントン・ハーコートの台所にあった
椅子の色形が祖母の家のそれと似ていたとする。しかしホーソーンはそれらを見て、祖母のそれと誤認識し既視のものと錯覚するといった具合である)またゲシュタルト(形態)理論において、我々はしばし一般的な事物や音を誤認識することがあるということが示唆されているが、これもこの理論を裏付けるものとなり得るという(これは例えば、スタントン・ハーコートにおける台所の広大な外観が、以前訪れて長い間忘れていたある教会などと結びつく)。
そして最後の理論は「二重認識理論」である。この理論は先に挙げた1896年のアリン博士の推測 - 通常の認識機能が寸断され、間違った既知の感情を抱く - を思い起こさせるものである。
1989年、ワシントン大学認知科教授のラリー・L・ジャコヴィ博士、そしてケヴィン・ホワイトハウス博士はデジャヴに関連するある興味深い実験を行っている。実験において博士らは被験者に対し、スクリーンに様々な単語群を映し出して見せ、そして数日後、今度は最初の実験の単語群のうち半分を含む新しい別の単語群を映し出して見せた。そしてそれから最初の実験の時に、どの単語群を見たか、被験者らに問うた。
そして実験の結果、2度目の上映の際、一度目に使われた単語群が映し出される直前に、それらの単語を非常に素早いサブリミナル的な速度(20ミリ秒)で見せた場合、多くの被験者が間違って答えるという事が明らかになったのである。この結果が示すところは即ち、我々が何かに対して半意識的に反応し、注意を向けた場合、「既知」の感覚が誤りやすいという事実を示しているといえる。
「我々が行った実験は、日常的な記憶と認識の中に多くの潜在的な落とし穴が存在していることを明らかにするものの一つに過ぎません。私は、我々は本質的には皆単純なリアリストであると思っています。我々は世界は目に見えたまま、それがそのままの姿であると信じています。しかし我々の実験はそうした認識をわずかですが揺さぶるものです。」ジャコヴィ博士はそう語っている。
またジャコヴィ博士は更に一連の研究を通して、記憶の欠損による年配者の精神的な能力障害の回復に繋がる道を探りたいと話している。「実験を通して実際に体験した記憶、そして体験したと錯覚する記憶、両者の違いを見極めることが出来れば、年配者が抱える一般的な記憶の問題を解決する糸口になるかもしれません。」
現在、ブラウン博士はデューク大学心理学助教授エリザベス・J・マーシュ博士らと共に更なるデジャヴの研究を進めている。マーシュ博士は先に挙げたジャコヴィ博士らの実験を更に押し進め、独自の研究を行っている人物である。そして今後、博士らは共同してデジャヴに関する新たな実験を予定しているという。
その実験とは、まず、様々な景色が撮影された写真の中に隠された小さな赤いクロスマークを被験者らに出来るだけ素早く探させるというものである。そして一週間後、今度は被験者らに、最初の実験で用いたものとは別の写真を多数混ぜたスライドショーを見せ、ひとつひとつに対して「あなたはこれまでに、この景色を実際に見た事があるか?」、あるいは、「かつてこの(写真の中の)場所にいったことがあるか?」と尋ねる。そして最終的に全てのスライドが終了したのち、今度は被験者らにその中で本当にいったことがある場所を再度尋ねるのである。
この実験において博士らが期待するのは、最初の実験で被験者らが写真の景色そのものではなく、クロスマークにその注意力が集中するという点にある。また博士らの予測では、この実験において被験者らは半意識的に目にした景色を既視であると錯覚することで、いくらかの誤回答(見た事のないものを見たと答える) - あるいはそれがデジャヴとして - するのではないかと期待しているという。
マーシュ博士はそれまで、オーソドックスな記憶の分野に関する研究を行っていた。しかし、ある日、ブラウン博士の論文批評を依頼され、徐々にデジャヴという現象にのめり込んで行ったと話している。「最初は、自分の専門である記憶の基本機能、そして記憶障害という視点から考えていました。だけどブラウン博士が何を言わんとしてるか、考えているうちに、とても惹き付けられてきたんです。彼の研究は確かにいくつかの面白い発見を含んでいます。それは例えば、良く旅行する人は頻繁にデジャヴを体験するといったことですね。」
またブラウン博士は今後、こうした様々な小さな発見を積み重ねることで、この奇妙な現象に何らかの光を投じたいと意欲を燃やしている。それは例えば、一体何故、年配の人はデジャヴを体験しなくなるのか?何故リベラルな人間は保守的な人間よりも多くのデジャヴを見る傾向があるか?また何故、報告される多くのデジャヴ体験は非日常的な場所でなく、ありふれた日常の中で起こるのか?といった小さな、しかし"有意かもしれない"発見である。
(スイスのユング研究者、アーサー・T・ファンクハウザー氏はデジャヴに関する自著の中で、デジャヴは自身を映す窓であるとし、しかしまた、デジャヴに現れるものの多くがしばしば非常に鈍く、奇妙であることを認めた上で以下のように記している。"一体なぜ、デジャヴにおいて無意識はかくも陳腐なものばかりを選ぶのか?")
また更に、博士は今後、癲癇病者、そしてデジャヴを"ほぼ毎日"頻繁に見るという奇妙な傾向を持つ人々の協力を得、研究を進めていくと話している。「そうした頻繁にデジャヴを見るという人、数人からメールを頂いたんです。そうした人々は私の研究にとって、本当にありがたい存在ですね。」
しかしまた、博士は今後の研究において、しばらくの間は大きな成果を挙げることは出来ないだろうことを予測している。「それは可能かもしれませんが、しかし、現在デジャヴと呼ばれるものは、実際には5つから6つの現象からなり、それぞれが違う原因を持っていると考えています。私の研究は、この余りにも抽象的な現象に対して、ゆっくりと歩を進めて行くものです。それはほとんど宇宙探索のようなものかもしれません。一体どんな発見があるのか、全く想像がつきませんね。」ブラウン博士は語った。
ビクトリア時代、英国の心理学者ジェームス・クリシュトン・ブロウン卿はデジャヴをして、「脳の中の一時的な痙攣」のような「些細で一時的な」脳障害であると指摘した。そして現代、このデジャヴ現象を説明する試論は以下の3つである。
この理論では、デジャヴを海馬傍回における小さな発作が原因であるとしている。海馬傍回は空間処理と"慣れ"の感覚を処理する部分である。
我々が得る視覚情報は二つの経路を通過して認識されることは良く知られた事実である。一つは後頭葉にある視覚皮質へと直接届き、もう一つはそれより幾分遅れて、後頭葉へと向かいながら脳の様々なエリア、特に頭頂葉を経由することが知られている。そしてある科学者はこの"遅延"に目をつけ、第二視覚路の刺激が何らかの理由で特に遅れた場合、脳はこれら二つの視覚路からの情報を、それぞれ別の体験として認識することがデジャヴの原因なのではないかと推測しているのである。
例えば、あなたは慣れない町を車を運転しながら、携帯電話で話している。あなたの注意のほとんどは携帯電話の会話に注がれている。そして数ヶ月後、今度はあなたは再び同じ場所を車で走ったとする。しかし今度は、あなたの注意は携帯電話の会話でなく、慣れない町の景色に注がれているだろう。そしてその時、あなたはふと既視感覚 - デジャヴを経験するのかもしれない。二度目の走行時、あなたの海馬は(その景色を見た事がないものとして)景色を意識的に処理するが、一方であなたはそれを「見た事がある」と認識するからだ。何故なら、あなたの短期記憶の中には、前回の走行時に見た景色の情報がいまだに残されているからである。
【参考1】記憶の心理学(物忘れ、デジャブ、思い出) | 類似性に基づく記憶の自己組織化より
デジャヴを支える類似性に基づく自己組織化
デジャヴは記憶異常現象では なく,一般大学生でも72%が経験している(楠見,1994:認知科学会大会).場所のデジャ ビュを引き起こすのは,並木道,古い町並み,公園が多い.こうした光景はどこも類似 しているため,事例の反復に基づいて典型的光景が形成される.典型的光景は,眼前の 光景とマッチングしやすいため,既視感を引き起こすと考えられる(典型事例は虚再認 を起こしやすい).さらに,既視感を起こした光景と原経験の結びつきは,知覚的手が かり,雰囲気,天気,気分などの全体的な類似性によって支えられている. これらは,記銘時と検索時の物理的環境や心理的環境の類似性が検索可能性を高める, 環境的・感情的文脈依存記憶現象として説明できる(楠見,1996:発心).
【参考2】心的現象論を読むより
フロイトはグロテスクな石像の並ぶビアホールの入り口の夢を繰り返し見ていた。1895年に行こうた寺院が「今日は閉まっている」と聞かされ途中で引き返して行けなかった場所へ、1907年に再び行く事へなる。すると、1895年時に引き返したと思われる地点で、夢の中に何度も出てきたグロテスクな石像の並ぶビアホールの風景をみつける。フロイトによると正夢とは、一度経験したことをまったく忘れてしまった状態で、かつ潜在意識の中には記憶として残っている状態、このとき眠る事で潜在意識が夢としてあらわれたものである。二度目に起きた状態でその経験をしたとき、すでに経験している事であるのだが、忘れているため未体験、夢による予知にみえる。
<忘れられた経験>−<夢>-<二度目の初体験>
この三つをつなぐ物が何故「グロテスクな石像」「ビアホールの入り口」なのか?それはこれらが、フロイトにとって重要な意味を持つものであるからだ。長い年月の間記憶するに値する意味がなければ、記憶などしていない。ただ、上記の腹切りの話と比べて、グロテスクな石像にどんな意味があるのかが分かりにくいだけで、夢として記憶され続けるものにはなんらかの意味がある。
【参考3】「野火」(大岡昇平)より抜粋
私は自分の足音に追われるように、歩いて行った。私はふと前にも、私がこんな風に歩いていたことがあったと感じた。いつどこであったかは不明であるが、過去の不定な一瞬において、私はやはりこうして歩いていた。異境の不安な黎明を歩くという情況は、確かに私にとって初めての経験のはずであるが、今私の感じている情況は未知ではない。私は出来るだけ過去に類似の情況を探してみたが、無駄であった。それは記憶の外側の、紙一重のところまで来ていながら、不明の原因によって、中に入り得ないようであった。
事実を思い出すかわりに、私はこういう想起の困難もまた初めての経験ではないこと、近代の心理学で「贋の追想」と呼ばれている、平凡の場合にすぎないのを思い出した。既知感だけであって、決して想起出来ないのをその特徴としているが、それは事実既知のものではないからである。ベルグソンによれば、これは絶えず現在を記憶の中へ追い込みながら進む生命が、疲労或いは虚脱によって、不意に前進を止める時、記憶だけ自働的に意識より先に出るために起る現象である。
この発見はこの時私にとってあまり愉快ではなかった。私はかねてベルグソンの明快な哲学に反感を持っていた。例えばこの「贋の追想」の説明は、前進する生命の仮定に立っているが、私は果して常に前進しているだろうか。時として繰り返し後退しはしないだろうか。
絶えず増大して進む生命という仮定は、いかにも近代人の自尊心に媚びる観念であるが、私はすべて自分に媚びるものを警戒することにしている。(中略)
私は半月前中隊を離れた時、林の中を一人で歩きながら感じた、奇妙な感覚を思い出した。その時私は自分が歩いている場所を再び通らないであろう、ということに注意したのである。
もしその時私が考えたように、そういう当然なことに私が注意したのは、私が死を予感していたためであり、日常生活における一般の生活感情が、今行うことを無限に繰り返し得る可能性に根ざしているという仮定に、何等かの真実があるとすれば、私が現在行うことを前にやったことがあると感じるのは、それをもう一度行いたいという願望の倒錯したものではあるまいか。未来に繰り返す希望のない状態におかれた生命が、その可能性を過去に投射するのではあるまいか。
あー、これは俺も結構あるなあ。
不思議だけど、嫌いな感覚じゃない。
しょっちゅうツーリング行くから、似た景色と混同してるのかとも思ったんだが、
確かに「この景色を見るのは初めてだ」ってはっきりわかるんだよなあ。
昔から小さい瞬間的なデジャヴュはしょっちゅうあるけど、不思議なのは、たまーに、ああ俺今デジャヴュ中・・・!みたいな感じで結構長い時間継続することがある。
幽体離脱中に見た未来の記憶を断片的に覚えてるだけだよ。
幽体(死んでる人のは霊体という)にとっては、時間の概念がないので。
>>4
あぁ続くこともあるよね。
自分のは10秒もなかったと思うけど。
でそのとき、
次はどうなる?って必死こいて考えたくなる。
デジャビュは面白いですよね
俺は夢で見た物と考えていました
それから夢にはアル程度の予知能力があるのではとね。
不思議な感覚ですね 決して嫌な気分ではないです
オレの場合はデジャビュは必ずデジャビュのデジャビュだな。
つまり、初めて見る景色なんだけど以前にもこの景色を見て
デジャビュを感じてたような気がする、ってなる。
この文章ではどういった脳の誤作動とか錯覚、障害とかそんな方向で話が進んでるけど、
たとえばある知らない場所で知らない人にある話題を突然話されるってデジャヴ が起こって、 話しかけられる瞬間に
その人に
「何々について聞こうとしましたよね?」 って
先に言って相手をめちゃめちゃビビラせた私のデジャヴも
脳の錯覚なんですかね?
文長いねぇ~・・・・
デジャブは現実世界とマトリックスの掛け橋かける時の歪みがデジャブって形であらわr・・・・。ごめんなさい。
>>17
ほんとうに知らない場所だったのでしょうか?
前にもあなたはそこを通ったことがあって、
そこで街頭アンケートか何かとっている場面に出くわして、
でもそのことをあなたは忘れているとか。
または、アンケートとっている人が同じでそれは別の場所
だった可能性も。
数学の時間中にやたら長いデジャブが始まって時間の感覚がなくなったことがあったなー
「この答えは○○で、次の答えが××。ここがこうだからこうなるんです。山田ほら起きろ!」
『答え○○っぽいな、うわ当たった!次は××。この感じもうあるぞ。確か山田が起こされて、あ!!』
みたいな時間のずれが長いこと続いて一人で息切れしたことがある。
せっかくだから先生のいうダジャレとか先取りで言ったりして驚かせたりしてた。
そのあとすんごい頭痛くなったな。まあ、頭痛は5日に1回くらい起こるので偶然重なったのかもしれないけど
確かに長い文だけど、とっても興味深い。
自分の場合デジャヴュというか予知夢みたいのは、
最近特に増えてきてる気がする。
あと疲れが溜まると増えるんで、経験論で言って疲労が云々というのは結構正しいような。
原因については、いつも同じような生活サイクルに従って
行動してるからじゃないかと思ってるが・・・・。
その場の他の人も、大概同じ生活サイクルでそこに来ている→同じ場所・同じ時・同じ人→で、
大体同じような事が起こってるんじゃないかなと。
日常的な場面でよく見るっていうのは当たってる。
よく海外で見て前世でここにいたかも、とか言う人がいるけど
そういうのは全然ない。それより友達としゃべってる瞬間とか
場面とか光景っていうよりその場のニュアンスみたいなの。
あと友達のセリフとか、セリフの後に来る自分の気持ちとか
そういうデジャヴが多い。だから博士も言ってる通り
既視だけじゃなくて既聴とか既感とかいろいろある気がする。
よく子どものころ、旅行とかで行ったところが
「ああ、ここ来たことあるなぁ」って思ってたなぁ・・・。
なんか大きくなって減った気がするんだけど。
14みたいのもなった覚えがある・・・。
脳内メモリが不足した時、脳が止むおえず
今現在開いている動画ファイルを、
脳内ハードディスクの仮想メモリに保存したせいで、
「あれ、このファイル。
既にハードディスクに保存されてるぞ。おかしいなぁ」
という事になるのが原因....と、PC風に予想。
コンニャク
夢の中での出来事とまったく同じ出来事が後日再現されたり
夢もロマンもまったくないが夢の中でやってたゲームが
1年くらい経って発売されてたりすることがたまにある。
これは既視感に入りますか?
>>14
あるある!
俺もそう。以前にデジャビュを感じたことがあるような気がするなーというデジャビュを感じてたことがある。
再帰的ですね。どこまで潜れるか。
でももう何年も無いな…
友達と数人で部屋のなかでおしゃべりしてる時、
よくデジャブに合いました。
「あ、まただ」って感じで。
デジャブ中は次に誰がどういう言葉を発するかとか全部分かるんです。
でもそれを口に出した事はなくて一人で「あぁ、やっぱりな」と納得してるんですが、これもただの記憶錯誤の思い込みなんでしょうか?
でも一番有力な記憶錯誤の線も単なる仮定に過ぎないんですよね。
「あー何かこんなことがあったよな〜」って一瞬思って、
でもよく考えるとそんな事実は起きていなくて、
何だか変な感じと思って書き留めておいたことが、
何日か後に現実になるってことが、私にはたまにある。
競馬の結果だったりしたらいいのだが、
ちっとも役に立たないような、「晩ゴハンのおかずは何」とか
そんなレベルのことで。
デムパ扱いされても仕方がないが。
だからデジャビュの研究は全く信用してません。
あ、これ一度みたことある、と思って次の行動がわかってもそうならないように行動してしまう。
そのとおりになってしまいそうで怖い。
>>5
正夢なら自分も半年に一回位あるなぁ。
夢の事忘れた頃にいきなり友達に廊下で背負い投げされて
頭打って床に仰向きになって「なんか前にもあったなぁこういうの」とか
>>7
ずっと前に線路の上をフワフワ浮いてた夢を見たんだけど
もし未来の記憶だとしたら自分は・・・ o...rz
26.>>
アンケートではないんですよ。 その人が急用である場所にいきたいという話が、話しかけられる数秒前にわかりました。
外国の旅行先でのはなしです。 「急用と場所」はその人を見る前に完璧にわかってました。 まるで時間のベクトルが一瞬で数十秒進んで元に戻るのを自分だけが体験したような感じでした。 まあ、証明できないんですけどねww またまたぁ~~ そんなこといっちゃってって感じですよね。周りから見ると。
25>> でしょ~!
前に見たことある場面がよくある
で、そこで違う行動をしたいのに、その通りになってしまうー
違う行動をとってみたいよ・・・
私の場合は新しい場所に行って見たことアルって思うより、人と話してて、次にこういう風になるっていうほうが多いな。
おれもデジャブぽい経験はよくある。
ある時間に、現在行ってる作業+その作業から感じる印象+周りの状況+プラスアルファーが過去の一瞬と重なったとき、
あ、おれ前と同じ経験してるという、タイムスリップのような気分を味わう。
思うんですがデジャヴってのはこんなのだとおもうんです
これは医学の知識とかない、ただ自分の感じることを手探りで考えた結果にすぎないですが
人間の脳は物事を「感覚」でとることがあるとおもいます。
そりゃ学校で習った数学の公式や人物名は感覚とは違いますが
で、風景をみてその風景の雰囲気をAとしてそれが残って
なんか風景を見てその感覚がAと似ている雰囲気をもっている。
その雰囲気が見た人の頭に感覚を呼び起こして、「ああこれはAに似てるな」と識別され、人間はAの感覚を通してAを記憶したときの雰囲気を感じる。当然それは二度目であり、
「あー、ここ来たね」って思える。
俺にはこう思います。でもただの一般人の意見なんで。
でも医学とかでこーゆー感覚的なことを解明するのは愚かなように思います。虫が窓に向かって飛んでいて、窓を開けたのに
まだガラスのほうの外を目掛けてブンブン飛んではぶつかって一向に外に出れない虫。もし神がいるなら、人間はこれと大差なく見えるのかなとか思ったり・・・
俺もあるなあ。
そんで「ココでこうして振り向くとオバサンが・・・」と
思って振り向くとオバサンが居たりするワケだ。
ディテールはハッキリとしないけど。
夢とかでも自分が夢の中でピンチになったりすると
「まあコレは夢であって現実の俺はピンピンしてるワケだが」とか
夢の中で思って目が覚めてしまったりする。
何なのコレは。
観念的なデジャビュは結構あったりします。そういえばこの道を通りかかったとき以前こんなことを考えていたな、とか。でも、本当に考えていたのかと自分に問うと全てが曖昧になってしまいます。でも、そんな瞬間が至福でもありますが、また、恐怖でもあります。でも本当はそんなこと考えたこと無かったのではありるまいか、と考えだすと、ちょっとやばいっす。
夢に至っては、デジャビュばかり。全てがデジャビュ。とってもやばいっす。ストーリーの前後関係、因果関係が逆転してます。朝起きると、また同じ夢見てしまった、みたいなかんじで、本当ははじめて見た夢のようなのです。毎晩同じ夢を見るという人は、デジャビュなのかもしれません。ああ、こわ。
まあ、適当に解釈を与えてみるならば、記憶回路の障害かと。PCのメモリー風に言えば、A0アドレス線とA1アドレス線のショート、錯覚かと。「何がどうしてどうなった」といった内容に至っては、人は基本的に毎日同じことを繰り返しているのだからたまたま一致したのではないだろうか?。一致しなかったデジャビュはそもそも意識されなかった。また、勝手なストーリーを無意識レベルで紡ぎだして、たまたま一致した、ってのも有力かと。少なくとも夢でのそれは、・・・(ぷ
でもデジャビュって可笑しいよね。
その記憶はデジャビュなのを知っているって変でないか?。
そもそもデジャビュを真実だと思い込んでいれば、デジャビュは存在しない。
ああ、上手く表現できないっす。
おれは6歳の頃死ぬってことが異常に怖くなった。
永遠に自分が世界から無くなるってことが怖くて怖くてしょうがなかった。
自分がいない世界が永遠に続くという観念が6歳のおれの脳を直撃した。
大人になると永遠という観念自体がバグじゃないかとか思うようになった。
永遠というちっぽけな人間の脳に収まりきらない観念。
永遠回帰。
よくわからん。
確かに。渋いな、 禿げてるけど。日本人はげるとかっこ悪いからなー。
はげたら人生終了だ。正直。額の大きさではげるか、はげないかわかるらしいな
最近ハゲかけてきた・・
で 鏡見たら意外と似合っていると感じた。
俺って以前からハゲることわかっていたから。
鏡の前でデジャブーを何度も見てきたから悲しくない・・
思い切ってスキンヘッドにしたら似合わなかった。
デジャブーで見たこと無いから・・
結論、デジャブーは予知能力にもつながる(←嘘かも)
今閃いたばかりのおやぢギャグを皆に披露してそれなりにウケたが、その後しばらくしてから、「あれこのギャグって以前にもこいつらに言ったような?」と不安感に駆られるのは、デジャブーでしょうか?
>>58
「見たことあるけど見たことが無い」でなくて
「見たことあるけど行ったことない」なので
見たこと のみからの情報だけではあなたの言うとおりですが、
行ったこと という別方向から、それがデジャヴであることがわかるものだと思います
うちはみんなと逆かな。
あ、次こうなるなって分かるっていうか先に気づいても、実際は違うようになってる。
ちがうパターンもある。
あ、今の見たことある!って後で気づくやつ。
この二種類は何か違うのかな?
先に気づくタイプのやつは、その時がいつ来るのかわからないからずっとワクワク(怯えて?)しながら待ってる。けどならない。
友達と一緒に居るときにデジャブると
俺「ああ!?これ前見たことあるよ俺!」
友「は?何言ってんだお前?」
みたいな微妙な空気になりますよね
高校に通っていたとき何回かデジャヴ体験したよ。友達が言った言葉とその場の状況を、何故か知らないけど知っていたんだよね。んで友達に「なぁ、前にも同じこと話したよな」って言ったけど無かったらしい。
でもちょっと面白いのが、俺が「前にあったよね」って聞くこともデジャヴだったんだよね。やっぱただ単に頭が錯覚したんだろうと思うけど、ぶっちゃけそれを予知って言うのかね。
人間の脳みそなんかまだ謎だらけだしね、でも無意味な機能なんて無いと思うんだよね。夢とかこのデジャヴも何か意味があって、時々なるんじゃないのかなぁ・・と思ってみたり。
最近あまり無いけれど、夢の中で「あ、この夢前見たな」って思う事がよくあった。実際に前に夢で見た場面かどうかは起きてからは思い出せない。
自分は中学の頃まで太っていたので、電車や人ごみで太ってる
子供を見るとなんだか懐かしい気分になる。
これが「デヴジャ」というんだなと思った。
あれだよ、人間の持っている第六感とかそういう類の未開発の超能力が、何らかの弾みで瞬間的に発揮されるのがデジャブなんだよ。
動物にはそういう能力が備わっているってのを聞いたことがある。いわゆる予知だが。日本の迷信にもあるように蛇(ネズミだったかな?)が縁の下から逃げたら家が崩れるとか。地震が起きる前に鯰が暴れだすとか。まぁそれは動物だから持ちえる危険察知能力なのかもしれないけど。人間だってそういう能力持っててもおかしくないんじゃない?
文章が長かったから書き込みも長くなっちゃうんだよ。しょうがないよね。ノリだよノリ。
何だよ、デジャブって瞬間だけじゃないの?
俺の場合は「あっ、今のこの場所この視点この状況でこんな事考えてるのを夢で見たなぁ」てのだけなんだけど
あと「マトリックス」でデジャブの発音を知って少しうれしかった
デジャヴー
何人か上げてらっしゃるように、長い時間デジャヴュ感覚が続く事があった
車の中で友達と喋っていて、次に来るセリフがわかるの
それに対する自分の答えも一字一句分かっているんだけど
分かっていながら同じことを言ってしまう不思議な感覚
あれはなんだったんだろうと時々思いますが
脳が情報流すルートで一瞬行き止まり食ったかと思うとしっくり来た
ずれている って感じだったんだよなー。
なので第2視覚路の遅延説を支持
でも普段起こる一瞬のデジャヴュとは感じが違うから 色々原因があるんだろうな
5,6種類の現象ってどんなのか詳しく知りたい…。
デジャヴはよく見るなぁ。中坊の時辺りはかなりのペースで見てた気が。
そしてデジャヴが来るとついつい楽しんでしまう。
「おっ、来た来た。んで多分カーテンをめくると・・そうそう夕日があって、
振り返ると・・おっ、やっぱりオカンがこっち見てる!
んでテレビの方を見ると・・・やっぱり天気予報だ!」みたいな。
つか、瞬間的なデジャヴってあんま見ない。
私のデジャヴ観は、そのとき感じているモノに間違ったタイムスタンプが押されて記憶する。ですね。
今リアルタイムで作られてる記憶の一要素(場面、匂い、雰囲気とか)に
過去のタイムスタンプが押されて脳の、「古い記憶棚」に格納される。
次の瞬間、新しいはずの記憶要素を“現在と同じ、古い記憶”として思い出し、
その要素に関連付けられているその他の要素を、古いか新しいか関係なく
引っ張り出してきて現在場面を再構成する。
自分自身の体験を思い出して見る限り、忘れている記憶ではないし、
デジャヴ映像は夢みたいにあやふやで、あとから作ってるっぽい。
一度だけ先に友達の喋る言葉がわかったことがあるけど、
付き合いの長い人の喋ることは前振りを共有していれば、わかることもよくあるし。
そのときはっきりわかるのは、「俺今デジャヴ中・・・」って感覚だけで。
>17さんは超推理が働いたか、超能力者ということで。
幼稚園の頃、なんかの映画(ビデオ)を見てて
「次はこうなる次はこうなる」って
先の場面の内容を言ってたら、一緒に居た親とか他の人に
「この映画初めて見るのに何で知ってるの」ってキモがられた。
自分は見た事があったつもりだったんだが
そんなの無かったみたいで、あれれー?みたいな。
あれはデジャヴだったのか?
>>84
俺も同じようなことがあった。
映画とテレビで。
でもその感覚がちょっと快感。
あと、友人が相談してきたときに
その相談内容の結末がたまに分かったりした。
デジャヴって、面白!
って思った。
先に分かってたら“既視”言うのかとブツブツ…
昔デジャヴと感じたもので覚えているものは
・荒井由実の“Hello, my friend”を初めて聞いた時
「ええ、新曲? ずっと前から知ってるよこの曲!」と言い張り、無駄に親を困らせた記憶が
・JOJOin週刊少年ジャ●プの第4章で、康介(?)のスタンドが初めて発現したとき
「いやこれは見たことあるよな…」とか一人で思っていたり
・部活の大会で初めて行った体育館前で集合をかけられ、開館待ちしていた時
──等々あるのですが 覚えているものって、全てニセモノのような気が…
今は1ヶ月に1回も無いくらいですが
2ヶ月ほど前、何かを聞きながらノートに書き写していたとき
ある行に来たところで
「これは3回目…つい4日くらい前にやったはずなのに、なんでまたやってんだ俺。
というか9年前に1回目があったのだが…」
──などと一人モヤモヤと考えていても 5文字くらい進んだら、もう既視感は消えてるという…曖昧です
(同じ自分の)前回の人生の断片を体が覚えてる──というのが持論なのに 夢のない記事だ…
小学校1年の夏休み、外に遊びに行き、近所のお墓の前を通ったら、塀の入り口から作業服を着た顔が赤黒い男が現れ俺の腕をつかんで塀の中まで無理やり引きずられて連れ込まれた。
男はズボンのチャックを開け、ズリ剥けで黒く太いちんぽを出して
『もんでけろ!もんでけろ!』と俺に哀願した。
驚いて何がなんだか分からなかったが
とにかく『やめて下さい!人を呼びますよ!』と言いながら
なんとか逃げ切りました。
それから1年後、また同じ時期に外に遊びに行き、
ちょうどその事件があったお墓の場所を通る時に、
なにかすごい嫌な予感がして通るのをためらったが、
同じことがあるはずもないと思いその場所を通ると、
去年と同じ男が現れて まったく同じように同じことを言って
俺にちんぽを揉ませようと迫って来ました。
その時も未遂で終わったのですが、
それをきっかけに自分が性的興奮に目覚めたのは明らかです。
今思えば、実はこれもデジャヴュの変形か?
>73 おもしろいwおもしろい俳句とか好き。その俳句を考えることができただけで73の脳は素晴らしいw
>>79みたいなことあります
次に何がくるってわかって、友達に聞かれて自分が何答えるか知っててデジャヴだな
と感じて反抗してみようと思い必死に声出すまいと格闘したんですが…、自分では声出さないようにしてたのに自分の声で返事が聞こえて…気付いたら勝手に答えてました
さすがにそのときは恐怖を感じましたが…
逆らうことは出来ないんだなって。
流石にそのときは本気で自分の意思で物事は進んでいるんじゃなくてすべて決まっているんじゃないかと思いましたね
>>79,92
これから起こることを知っていると脳が勘違いしていると考えるのが、今のところ自然。
だから、実際に物事を予言しようとするとうまく行かないはず。
知っているという感覚があるけれど、知っているわけではないってこと。
>>17さんのは超能力
中学生の時、集団デジャヴといえばいいのか…そういうのに陥った事がある。
体育の前の休み時間に、ある男子にロッカーから体操服を取って投げてもらい、お互いに言葉を少し交わす。
これを、私は3回程
「あー、今デジャヴだなー」
みたいに思いつつも、かといって逆らう事もできずに同じ事を繰り返した感覚。
2回目の時には「今と同じ事、前にもあったよね?」と言っても相手は「ないよ」と言っていた。私も本当は初めてだってわかっていた、妙な感覚。
3回目の時にも「今と同じ事、前にもあったよね?」と言ったら相手は「…それはオレも思った」と言った。自分達2人以外の友達も周りにいて、その子達もまったく同じ動き、言葉を発していたので偶然なのかと思い、自分達を見ていた周りの子にも
「同じ事あったねー」と言うと「何言ってるの?」と。
そして、確かに私はその時おかしいと思いつつもこれらは初体験であると知っていた。
完全にラリっていたとしか思えないんですがこれもデジャヴと言っていい?
まったく関係無いけど以前見たある夢の続きを見るってのはあったね。夢が正夢になるってのもたま~にあるよね。俺は未だに無いけど、もしかしたらデジャヴも夢の中で体験したことを現実で感じて、「あぁ、俺前にも同じことやってる」「ここに来たことある」とか思うんだったりして。
人間は夢を毎日見てるけど、ほとんど覚えていないみたいだしね。
俺も小学の時風邪で寝込んでた時夢に妖精が出てきてなんか一緒に旅に行こうといわれ。ついていったら何故か学校にいてしかも知らない間に席替えしちゃってるし。隣は嫌いな奴になってるしといろいろあり・・・まぁここで目が覚め。風邪もバッチリな直り翌日学校に行ったら見事に席替えしちゃってるし、隣も夢で見た奴と一緒だし。「ヤバッ俺予知能力者?」とか思いつつ授業に出たら夢に出てきた問題がでてるし。いやぁあの時の俺は本当デジャブってたなぁ・・・。
ここで、デジャブューは未来の幻視つー学説立ててくれるクレバーな人居ませんか。21世紀にもなって脳のせいって学説は、はっきり言ってうざいです。
デジャヴ体験とはちょっと違うんだが
ある日、俺は友達に「そういえば●●が■■だったらしいな~」と話を振って
その数時間後に全く同じ場所で同じ話を振ってみたら
「あれ?デジャヴか?」と不思議がってた。
つまり、単に「それはさっきも聞いた」という反応ではなく
意図的に「デジャヴ」だと思いこませることができたわけ
既視感を意図的に発現させることができるならそれは神秘でもなんでもなく脳の錯覚の一種だろう。
デジャヴってるって気づきながら次の瞬間を予想して、
それかあたっちゃうと逆に不気味に思ったり…。
忘れかけてた夢の内容と似ているとか言う次元じゃなくて
何から何まで一緒だって思い返したときにぞっとした。
ちょっとの間呆けてた…(汗)
デジャヴは殆どの人が1度くらい経験してると思う。
でもほんと何の役にもたたんからな…。
馬券を当てる事ができるとすれば、
それはデジャヴじゃなくて「予知」かと。
関係無いですが、
フロイトがはげてるのは奥さんが恐妻だからです。
>>112さん
既視感連続進行中です。夢とかとういう次元じゃないです。
辛かったりしませんか?
ちなみに下のサイトの管理人さんのデジャヴ記事と同じ感じです。私だけではなかったのですね・・・・。
管理人さんみてないかな?
[ >> LINK ]
メールも掲示板も閉鎖中みたい。
>>97
92だが
勘違いッつうか実際に当たってんじゃん?
相手の発言前に事象を認識してるのは確か
というか読めば解ると思うけど
実際に予知した事象には事象が起き始めてから認識して
、予知事象に逆らうことはできなかったの。
予知に逆らうからか言葉として予言することは不可能だったのだが?
これを読んでたら、もう忘れていた小学生の時の
遠足で愛宕山に登っていた時の事を思い出した。
それは友達と2人でリュックを背負ってひたすら
頂上に着ければ昼ご飯だな、とか友達と喋っていた。
そしたら次の瞬間目の前が真っ暗になって何かの
大木の影だろうと思った瞬間20m前方を歩く3人連れの
誰か他のクラスの一番後ろを歩く子の10秒後がハッキリと
判った。その時は反射的に隣の友達にあっ前の子コケルぞあぶない!と言った直ぐ後、木の根っ子につまずいて思いっきりこけて
擦り剥いていた。友達は俺になんで分かったん?としきりに
聞いていた。自分でもわからへんと言った。しかし木の根っ子に
つまずいて転ぶ体勢、転んだ後の様子、喋っている内容全てが
一瞬で理解できた。自分でも相当不思議だった記憶がある。
因みに俺は31歳だからもう21年も前のことをこんなに
ハッキリ覚えているのも不思議だ。
未来を変えてしまいそうで怖い。デジャヴで見た結果とは違う結果にしようと後の行動を変えると事故にあったり、人を殺してしまったり・・・。
テストのときに起こったらよかったのになぁ・・・(´,_ゝ`)
小学生の頃結構あったなぁ…。しかも同じ内容を3度も4度も経験した感じがした。
先が分かってもあえて変えないようにしてるけど。
オレはまさにこういう掲示板のレスの形で起こった。
新しく出来たわけだから、このセリフはまえに
見たことがないはずなのに、、、
とおもった。
同時に、オレって予知能力者か1?って思った
つーか、記事がとても長すぎるよ。
特捜リサーチ200Xみたいに語ってくれんのはいいけどさ。
もうちょっと簡潔にまとめてほスぃです。
または、背景の色を灰色とか目にやさしい色に変えてください。
まあ、僕も速読が身に着けられるよう努力しますんで。
スレ違いですまぬ。 ご検討いただけたらありがたいです。
オリコンにランクインしてた曲を買って姉貴が聞いてたところを、「これ、数年前の曲やんなぁ」と言ってしまったオレ。
確かにどっかで聞いたことあるような・・・と思うけど、カバーソングでもなんでもないらしい。
不思議
他の人が関わるデジャブは、その人が何かを言おうと予め想う、
その想いがテレパシーで伝わっているのではないかという気がします。
テレパシーというのは確かに存在するのです。
某塾の最初の講義のときに先生が入ってきて自己紹介。
そのときにデジャブだと思い、次に何が起こるか必死に考えた。
んで知らないみた事もない先生が入ってきた光景が浮かんできて
すごく楽しかった記憶がある。
最近でもときどきあるなぁ
最初は夢で見てた事が繰り返されてるだけだと思ってたけど
最近はその時見たものを「見たことがある」と思い込むのが
デジャブと思ってる。
けどそうだとすると上の話が矛盾するんだよなぁ
もしかしたら俺には予知能力があるのか、とか
全く違う方向へ考えてしまう。
もしかしたらほんとに予知能力があって
たまたま発動したのかな。
デジャブ、よくある。
でも一度見たことある、というよりは「これ、夢で見た!」って事の方が多い感じ。
一回いつもとおんなじ様なことを違う対象で違う部屋でやってるのを夢に見て、不思議に思ってその内容を意識にとめておいたら、その半年後ぐらいに同じシチュエーションに。
「きた!」ってかんじでした。
昨日のアーテイスト総売上トップ50、次辺り誰々来そう、とかいってたらことごとく当たった。といっても五人くらいだけどね。思わず私は予知能力者か!?と思った。
はじめまして
小生のブログでこのエントリーの内容を
一部抜粋させて頂きましたのでご了承ください。
問題があればご一報をお願いします。
現在年齢14歳ですが
一ヶ月に3回ほど連続で体験しました。
私の場合は2回目は、夢で見た事でした。
他の体験は全然知らない初体験でした。
「デジャヴモードに入ったとき、この後自分がいう台詞まで
わかっていたりして、あえて違うことを言ってみた。」
という多重のデジャヴを感じたことがあります。
同じ内容のデジャヴを数回繰り返すことがあります。
またですか?もうn回目だよ、といった感じ。
はじめまして。
個人的なレポート作成にエントリーの資料参考にさせていただきました。非常に為になりました。ありがとうございます。
デジャヴを感じるとき何時も連鎖の最終回を見る。
つまり、デジャヴを感じる時、その後の違う結末も見ていると思う。自分はデジャヴを他人には伝えないが、デジャヴ上でははデジャヴを証明しようとした挙句にひどい目にあっている。
しかし、現実では証明しようとも思わず、ひどい目にもあわない。そして、同じことを永遠に繰り返している気がする。
結末になることは永遠にないのかもしれない。
デジャヴの結末?筋書き?を最後の最後で裏切ってます。
例)
デジャヴ上
右→左→右→右→左
現実
右→左→右→右(ここでやはりデジャヴだと気がつく)→右
>>109
一年半ほど前、正夢?近親感?で競馬(G1)が白枠と大外で来る!とおかしな感覚にとらわれ、勤務先の人たちに吹聴しまくったことがある。 結果、枠で七倍的中!!自分が信じられず2千円しか買ってなくて、後で後悔した・・・。
それで、アキュラのキーとキーホルダーを通販で買えたので良い思いでです。
デジャビュで嫌な記憶が。
「うわ、何こいつ見た目も喋り方もキモいな」という既視感があったんだけど、実はそいつは従兄弟だったとき…
個人的な解釈なんだけど。デジャヴってのは本来人間に備わってる「近未来を予測する力」が夢とかの無意識に近いとき一時的に覚醒するってことだと思う。
人間の脳ってまだまだ使えるんでしょ?武術の達人とかにしても、相手の次の行動がわかるみたいなこと言ってるの何度か聞いたし、非常識だけど無くも無くない?
>>142
自分は「近未来を予測する力」じゃなくて「夢で無意識が伝えたことを現実にしてしまう力」があるんだと思ったよ。
ずっと昔に友達がてんかん症状を起こして倒れた時、倒れた友達に声をかけようとしゃがんだ瞬間デジャヴを感じた。
デジャヴの中では俺は友達の胸元に手を当てたとこまで覚えてた。
どこを見てるのかわからない目をしてガタガタ震える友達を見ながら、とりあえずやってみようと思って、軽く手を胸に当てた瞬間、友達が意識を取り戻して、何?何があった?と聞いてきた。
その後は少し気分が悪そうにしてたが、それから救急車を呼ぶわけでもなく、そのままみんな家に帰った。
「てんかん」て言葉をポ○モンのニュースを見る以前の体験。
今まで生きた中では人生で一番の不思議な体験だった。