最初に断っておくが、今日は決してエイプリルフールではないし、この話はネットに溢れるうさん臭いオカルト・ニュースでもない。これは未だに医学史に確かに刻まれている「ウサギを産んだ女」メアリー・トフトの身に起きた、真実の物語なのである。舞台は1726年、イギリス。彼女は当時、「ウサギを産んだ女」としてメディアに紹介され、英国全体に一台旋風を巻き起こした。彼女を診断したイギリスで最も高名な医師は、当時の新聞に対しこう話している。「本当だよ!この目で見た。一匹どころじゃない。少なくとも、16匹のウサギを産んだんだ・・・!」。"ウサギ出産事件"が起きた時、メアリーは25歳。既に結婚し、英ゴダルミンにて使用人として働いていた。
その年の八月、彼女は初めての妊娠、そして流産を経験した。しかし、不思議なことに流産を経て尚、そのお腹は妊娠しているように見えたという。そしてそれから数日後、地元の医師ジョン・ハワード博士が彼女の元を訪れた時、事件は起こったのである。妊娠中の彼女が突然、博士の目の前で小さなウサギを次々と産み始めたのだ。
ハワード博士は驚愕し、慌ててウサギを捕まえようとしたが、そのウサギたちはほとんど生まれながらにして既に死んでいた(写真は当時の新聞の挿絵から)。そしてハワード博士はこの驚くべき出来事を共同で調査するために英国の著名な医師や科学者達に手紙を送った。結果、彼の元に聖ナサニエル・アンドレ氏、解剖医キング・ジョージ氏、そしてロンドンで最も有名な産科医リチャード・マニンガム氏が駆けつけた。
その後も、研究者達の前で、メアリーは死んだウサギを次々と産み続けていった。その内、医師達はいくつかの事実を発見した。まず、生み出されたウサギ達には臍の緒がないこと ーー 臍の緒は本来母親の体と胎児をつなぎ血液を供給する ーー しかし、メアリーはウサギを産みつつ、一切の胎盤、そして臍の緒を生み出さかった。また検査の結果、死んだウサギ達の何匹かは肺の中に空気を持っていた。この事実はすなわち、彼らウサギ達が死ぬ前に、つまり生まれる前に(全て死産であったため)、呼吸をしていたことを意味している。
妊婦刻印説
このように奇妙な事実は幾つかあったがいずれにせよ、訪問者の一人、聖アンドレ氏はこの事実に大きな感銘を受けた。彼は長年温めていた自身の仮説"妊婦刻印(maternal impressions)"説を裏付ける事実として、この事件を世間に公表したのだ。
「妊婦刻印」とは奇形児の誕生に関する医学上の一説で、妊娠した女性の思考や経験がそのまま胎児の姿に影響するという説である。例えば、妊婦が妊娠中に騒音を聞いていた場合、その子供は難聴になる。妊娠中にイチゴをたくさん食べていたら赤ちゃんが赤い斑点を持って生まれてくる。妊娠中に盲目の人を見たら赤ちゃんは盲目のまま生まれてくる。といった、現代では迷信といわれる類の話である(しかし、胎教の例を見ても分かるとおり、上記の例はやや極端なものだとしても、単なる迷信としては一概に否定しきれないものもある)。
現に、メアリーの話によれば、彼女は妊娠中、焼きウサギを食べたくて仕方がなかった。その為、彼女は庭でウサギを捕まえようとしたり、市場で何度もウサギを買おうとしたり、ウサギを夢にまで見たとアンドレ氏に話していたのである。その後、聖アンドレ氏はひとまずメアリーをロンドンの高級アパートに住まわせ、彼女はそこで取材ラッシュを受けることになる。彼女の話は一躍英国で話題になり、メアリーの話は科学者、そして哲学者の間で"妊婦刻印"を巡る討論の最大の焦点となったのである。このメアリーの話で、一気に現実味を帯びた「妊婦刻印説」は世間の圧倒的な信用を得ることになる。そして、彼女もまた有名になっていった。
しかし、ここで予想外の出来事が起こった。人々は彼女の話に驚くより尚先に、メアリーを不気味な女だと考えたのだろう。彼女は人々に「ウサギを産んだ奇跡の女」ではなく、不気味な出産を繰り返す「英国一恥ずべき女」と、呼ばれるようになってしまったのである。
それはもちろん彼女が望んでいた事ではなかった。そして、汚名に苦しむメアリーはついに自白した。単純に、彼女の話は全て嘘だったのだ。まず村の人々がメアリーに「彼女が産んだ」死んだウサギを前もって与えたことを認め、またメアリー自身も死んだウサギを腹の中に隠していた事を認めたのである。
彼女の動機は実に単純である。「有名になって、お金持ちになりたかった」だけであった。
かくして、聖アンドレの「妊婦刻印」説、そして彼を支持した者達は、今度は英国で一気に笑いものになってしまった。これでひとまず、「ウサギを産んだ女」メアリー・トフトの話は終わりである。
しかし、この物語には後日談がある。この後、人々の間でメアリーとウサギの話はすぐに忘れられたものの、妊婦刻印説だけは、近代に至るまで仮説として生き続けたのである。19世紀から20世紀に至るまで、その後一世紀に渡って医師たちは、妊婦刻印説を胎児の先天的な疾病の説明の為にしばしば用いていたのだ。
例えば、有名な例として、19世紀、イギリスで「エレファント・マン」として世間を騒がせたジョセフ・メリックをご存知だろうか。彼の姿は現在でこそプロメテウス症候群、また第一種神経繊維腫症の合併症が原因であったと推測されているが、医学知識の乏しい当時、英国では彼の異形の原因は母親が妊娠中、象に踏まれたからである、と本気で信じられていたのだ。そして20世紀になって尚、一部の国では妊娠中に胎児への悪影響を恐れ、何らかの障害を持った人々を避ける、といった迷信的な行為が行われていたのである。
【参考】胎教のふしぎ/胎教のススメ | 心の研究室
【関連】X51.ANIMA : ジョセフ・メリック - エレファントマン
日本でも同様な事例が記録されてるので簡単にご紹介しておきます。
○メアリーの場合と同じ、生物が別種の生物を産んだ事例……
「トンビがタカを産んだ」
○あるモノから、別のモノが産まれた事例……
「棚からボタ餅」
○ある状況が別の状況を生んだ事例……
「嘘からでた誠」